soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

行き詰り、弱り果てた私たちを

 主は、
弱り果てた私を救ってくださる。詩116:6


 パウロの手紙:
キリストの力が私の内に宿るように、
むしろ大いに喜んで
自分の弱さを誇りましょう。Ⅱコリント12:9


 Ⅰコリント14:1~5、27~40
 ヘブル書10:1~18(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/22;火)


 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
弱り果てた、おとしめられた私たちを救ってくださる方、
「わたしの力は、
あなたの弱さのうちに完全に現れる」と言われる方(Ⅱコリント12:9)。


 それで、パウロは言うのですね。
「キリストの力が私をおおい、
私の内に宿るように、
むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」、と。


 天の神、主との関係にあっては、
私たちは弱くていい、弱いほどいい、ということでしょうか。


 私たちの、その、弱さの場所に、
天の神、主は来てくださり、
御力をもって覆ってくださるのだそうですから。


 だから、神様との関係においては、
心(霊)の貧しい者、
悲しんでいる者、
自分には義がなくって、義に飢え渇いている者は
幸いだって言われるのでしょうね(マタイ5:3~6)。


 イエスは、私たちが、
この、神との正しい、あるべき関係に回復されるために、
ただ一度、十字架刑での処刑を受けて、
永遠のいけにえとしてご自分をささげてくださったのだそうです。


 そのご自分の死によって、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている」(創世記3:5、22)
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑済み、死んだもの、としてくださっているのだそうです。


 そのうえで、新しい霊のからだに復活し、
天の父である神の右の座に帰られ、
受け入れる者に、もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。


 この方は、私たち一人一人に対する
〔父である神〕の御思いを、
それぞれの心に置き、書きつけてくださって、
受け入れる者が〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心になるようにし、
私たちを、イエスのからだ、肢体とし、
からだがその人の思うとおりに動くように、
私たちが、〔父である神〕がしようと思われることをしていく者に
してくださるのだそうです(ヘブル10:1~18)。


 それで、受け入れる者には、
〔父である神〕の愛の思いが来るようになり、
その愛において、
〔聖である霊〕と呼ばれる方がされるとおりに(使徒2:4)、
異言でもって人々に語るようにもなり、
預言をするようにもなるのだそうです。


 けれども、
「神のひとりのようになりたい」私たちの〔生まれたときからの霊〕は、
その〔聖である霊〕と呼ばれる方の働きの現れである
異言や預言をもってさえも、
自分が他の人よりも霊的になった、
神のひとりに近くなったと誇り、
これ見よがしに人に誇示するようになってしまうのですね。


 パウロは、そのようになり、混乱しているコリントの集まりに対して、
〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
愛をもって、お互いの徳を高めるよう、
適切に、秩序をもって働いてくださる方ですよと、
諭しているのですね(Ⅰコリント14:1~5、27~40)。


 そのような、
神様の働きを自分の栄光にすり替え、
受け取り違いをしてしまう私たちですが、
それでも、〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの心に〔父である神〕の御思いを置き、書きつけて、
私たちが〔父である神〕と一つ心になって歩むよう、
働いてくださるのだそうです。
私たちの弱り果て、自分の死を受け取っている場に。
今日も。


(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)


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