soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、と

主が望まれるのは主を畏れる人、
主の慈しみを待ち望む人。詩147:11



 イエスの言葉:
神の御心を行う人こそ、
わたしの兄弟、姉妹、又母なのだ。マルコ3:35



 ヨハネ14:15~21
 マルコ13:28~37(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句3/28;土) 



 天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」
と名乗られる方(出エジプト3:14)は、
ご自身を畏おそれる人、
ご自身の恵み、慈しみを待ち望む者を
望んでおられるのだそうです。



 だから、イエスは言われるのですね。
【父である神】の御思いのとおりに生きる人こそが、
わたしの兄弟、姉妹、又母なのだ、と。



 私たちは、自分の力で
神の御思いのとおりを生きることはできない者なのですね。



 神は、私たち人間を
「われわれのかたちとして、われわれの似姿に」と思われて、
そのように造られたのだそうです。(創世記1:26)



 【父である神】、【御子である神】、【聖である霊】と呼ばれる神が、


それぞれ、全知、全能、永遠不変の方でありながら、
【御子である神】も【聖である霊】と呼ばれる神も
自分だけの思いで動くのではなく、
愛のゆえに、自由意思で自発的に
【父である神】の御思いと思いを一つにし、
【父である神】の御思いが成ることを望まれ、
そのように生きておられる方なのだそうです。(ヨハネ6:38、8:28、16:13) 


【父である神】と思いを一つにして(ヨハネ17:21) 



 そして、それと同じ関係の中を生きる者をと願われて
私たち人間を造られたのだ、と。



 しかし、最初の人、アダムとエバは、
その造られた場にいることに満足せず、
もっと自分を高い者にしようとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となることを
選び取ったのだそうです(創世記3:5、22)。



 神と思いを一つにする者の場を捨てて、
自分の理性の判断で善悪を決めていく」、
神に対立、対抗する、
神の創造の目的から「的外れ」になっている者に。



 その私たち人間が自分の努力で
神と思いを一つにしていくことは、無理なことなのだそうです。


 


 それで、【御子である神】が、人間イエスとして人の世に来られ、


すべての人間の背き、「的外れ」の責任をご自身に負い、
私たちが受けるはずの十字架刑での処刑を受け、
死んで葬られてくださったのだそうです。



 【父である神】は、このイエスの受けられた処刑を
私たちの処刑とみなしてくださって、
「的外れ」になっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑が終わったこととし、死んだものとしてくださるのだそうです。



 その上で、【父である神】は、
イエスを通して、【聖である霊】と呼ばれる方を
私たちに派遣してくださって(ヨハネ14:16)、
この方によって私たちの心にご自身の御思いを置いてくださり、
私たちの心にご自身の御思いがあるようにし、
私たちがご自身と思いを一つにして生きることができるように
してくださっているのだそうです。



 それで、この生き方を受け取った者たちを、
イエスは「私の兄弟、姉妹」と呼んでくださるのですね。


 私たちもこの方に尊敬と畏れをもって、
慈しみと恵みを待ち望んで。


今日も。


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