soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

神の知恵、英知、助けの中で

知恵を授けるのは主。
主の口は知識と英知を与える。箴言2:6


あなたがたの中で
知恵の欠けている人がいれば、
だれにでも惜しみなく、
とがめだてしないでお与えになる
神に願いなさい。
そうすれば、あたえられます。ヤコブ書1:5


 ヨハネ6:47~56
 ミカ書6:1~16(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/27;月)





今まで、
主は我々を助けてくださった。サムエル記上7:12


私たちは、
四方から苦しめられても行き詰らず、
途方に暮れても失望しません。Ⅱコリント4:8


 マタイ22:1~14
 ミカ書7:1~7(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/28;火)



 天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」
と名乗られる方(出エジプト3:14)は、
私たち人間に知恵と知識、英知を与えてくださる方。


 だから、私たちは、
知恵のない、知識の足りない自分を感じるとき、
ない者であると認めて、
この方に聞いていけばいいのだそうです。


 私たちは、信仰によってでも、
自分が知恵あるもの、知識のある者になり、
いよいよ、自分で「善悪」を判断できる者となって、
この方なしでやって行けるようになろうとする者です。


 けれども、ないままでも、
必要のたびにこの方に聞いていけばいいのだそうです。
この方が、
私たちを行くべき道に導いてくださるのだそうですから。



 この方は私たちを助けてくださる方。
私たちは、四方から苦しめられて行き詰ったり、
途方に暮れてしまうときがあります。
しかし、この方の助けがあるので、行き詰りきることはなく、
途方に暮れても、なお、望みがあるのだそうです。



 それで、王子の結婚の披露宴に、
通りを歩いていて招かれ、
王から婚礼用の礼服を渡されたのに、
それを着ようとしないで自分の服のままでいて、
披露宴から出されてしまった人のように(マタイ22:1~14)、
イエスの御思いと一つになろうとしないで、
自分の思いだけでいく生き方に固執しないほうがいいようですね。





 イエスの肉を食べ、イエスの血を飲む(ヨハネ6:47~56)。
私たちのからだが、パン(食べた物)で出来ており、
だから、ある意味で、
私たちのからだがパン(食べた物)の中にあり、
また、食べたパンがからだの中にある、とも、言えるのですね。


 そのように、霊の出来事として、
私たちの思いがイエスの御思いの中にあり、
イエスの御思いが私たちの中にある、
イエスと思いを一つにする者、


王の出してくれた礼服を着て、
王子の婚宴の大宴会に出る者と
していってくださるのだそうですから。


 私たちも、神である【主】を仰ぎ見、
救いの神を待ち望みながら(ミカ7:7)、
神の知恵と助けの中で。
今日も。





(聖書のことばへの疑問、
近くの教会を知りたい等の方、
また、婚活で広く出会いを求めたい、


教会に行っていないけれど、
葬儀をキリスト教でしたい、等の方、
お問い合わせは、
shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。)



〈日本仲人協会 https://www.omiaink.com/ 認定〉
〈(復活社 http://www.sougi8849.jp/index.html 〉




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