soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

そばに来て欲しいのだそうですね。私たちに。あの方。


父母は私を見捨てようとも、
主は必ず、私を引き寄せてくださいます。
詩編27:10


キリストの言葉:
わたしは世の終わりまで、

いつもあなたがたと共にいる。マタイ28:20


               (ローズンゲン日々の聖句5/6;水)


 一緒にいること、それが喜びなのですね。
何をするとか何が出来るとかいうことではなく。
御父と御子と御霊と呼ばれる方々が一緒にいて、一つになっていて、
それを喜んでおられる。
その喜びの中に加わる者をと望まれて私たち人間は造られたのだそうですから。
それで、私たちも心の深い所では誰かと一緒にいることを求めているのでしょうね。


 けれども、的外れになってしまった人間、
自分の座を密雲の頂に設けようとし(イザヤ14:13~14)、
自分の判断を最高のものと考え、互いに相手を自分の意のままに動かそうとして対立し

足を引っ張り合う関係になってしまっているようです。


 神のひとりのようなり、善悪を知るものとなった私たち人間は(創世記3:22)、

全能でも全知でもない自分の実態を見て、思ったようでない自分を嫌うようになり、

また、女がその乳呑児を忘れてしまうようなことさえもある。
愛別離苦でありながら怨憎会苦でもある。


それが、私たち人間の実態なのでしょうか。


 けれども、詩編の作者が言っているように、
たとい、父母が私を見捨てようとも、
自分で自分自身が嫌で、自分を抹殺したくなるようであっても、
天の神、主は、私たち人間ひとり一人を大切に思い、
御もとに引き寄せて下さるのだそうですね。


 母親が赤ん坊のお尻の世話をするように、

私たち人間の背きの罪の尻ぬぐいを、ご自身の側で全部済ませて下さって、
御子である方を人として人間の世に送られ、この方を私たちの身代わりに立て、十字架刑で処刑して、

私たちすべての人間を死刑執行済みとの手続きを済ませたうえで、

いつも一緒にいる仲になろうよと提案していて下さるのだそうです。


 使徒パウロの目からすると、その姿は、まるで、

神である方が私たちに懇願しておられるかのようなのだそうです。


 天の御座を見上げてこの方に思いを馳せ、思いにふける(詩篇27:4)、

そのような一日でありたいですね。
聖である霊呼ばれる方が上からすっぽりと覆っていて下さる、

いっしょにいて下さることを感じながら。
今日も。

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