soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

怒りをしずめ、傷をいやす、柔らかな言葉を語る者に

柔らかな応答は怒りを静め、

  傷つける言葉は怒りをあおる。箴言151


 主の僕たる者は争わず、

すべての人に柔和に接し、

教える事ができ、

よく忍び、

反抗する者を優しく教え導かねばなりません。Ⅱテモテ22425


        (ローズンゲン日々の聖句5/6;金)


 天の神、主と思いを一つにしていく在り方を捨て、自分が「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」とした人間(創世記3:5~6、22)の、「生まれたときからの霊」から出て来る思いは、サタンと同じ傾向を持っているのだそうです。

「私は天に上ろう。

神の星々のはるか上に私の王座を上げ、

北の果てにある会合の山にすわろう。

密雲の頂に上り、

いと高き方のようになろう」(イザヤ141314)とする傾向を。


 それで、神に対してだけでなく、人間同士の関係にあっても、自分が一番素晴らしい者、自分が他よりも優れた者でないと落ち着かなくって、自分がすべての者の上に、トップに立とうとするようです。

それで、政治の世界でもそうですが、すべての人間関係において、相手よりも自分を優位にし、上に立つための議論が激しくなるようです。


 柔らかな受け答えは相手の怒りを静め、激しい言葉は相手を傷つけ、怒りをあおることになるようですね。


 私自身である、「生まれたときからの霊」を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだものとしていただき、新たに、イエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方によって、「父である神」」と呼ばれる方が、私たち一人一人に思っていてくださる御思いを心に書き付けていただき、その御思いをわが思いとして生きる者は、御思いのとおりに、柔らかな、柔和な受け答えをすることができ、相手の怒りを静め、心の傷をいやす言葉を話す者になるのだそうです。


 イエスが、自分を十字架刑にするかどうかの裁判をしているローマ総督ピラトの前でも、ピラト自身が不思議に思うほどに、静かで、柔らかな言葉での対応をしておられたように。


 まさしく、イエスは、イザヤの預言の言葉にあるような方だったようです。

「彼は痛めつけられた。

彼は苦しんだが、口を開かない。

ほふり場に引かれていく羊のように、

毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、

彼は口を開かない」(イザヤ537、ヨハネ183338)。


 イエスは、自分からは、何一つ話さず、「父ご自身が、わたしに何を言い、何を話すか、その父が言われたとおりを、そのまま話している」(ヨハネ1250)方だったのだそうですから。


 十字架に架かられ、墓に葬られ、三日目に墓より復活し、天に帰られ、「父である神」の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」。

この方をお迎えする者は、自分自身である「生まれたときからの霊」から来る思いは、「死んだ者から来た思いである」と認めて、これを口に出すことはせず、イエスのように「父である神」と呼ばれる方が、自分を通して話そうと思っておられる言葉を話す者にしていただけるのだそうです。

柔らかな、怒りを静め、傷をいやす言葉を。

今日も。

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