soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

本当の愛は、相手が望むことが成ることを願うものなのだそうですね。

 わたしは、彼らにわたしの掟を与え、

  わたしの裁きを示した。

 人がそれを行えば、

   それによって生きることができる。エゼキエル書20:11



 イエスの言葉:

わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。

わたしの父はその人を愛され、

父とわたしとはその人のところへ行き、一緒に住む。ヨハネ14:23



      (ローズンゲン日々の聖句6/1;水) 

 

 天の神、主、「父である神」と呼ばれる方、「御子である神」と呼ばれる方、「聖である霊」と呼ばれる方は、それぞれ、全知、全能、永遠不変の方でありながら、互いに愛し合い、尊敬し合っておられる方なのだそうです。

それで、その自由意思において、自発的に、自分の思いがなることよりも、相手の思いがなることを喜びとし、生きがいにしておられる方のようですね。

「父である神」は、ご自分の思いのすべてを、「御子」である方、「聖である霊」と呼ばれる方に明かしておられ、「御子」である方、「聖である霊」と呼ばれる方は、ご自身の思いがなることではなく、その、「父である神」と呼ばれる方の御思いがなることだけを求めておられるのだそうです。




 天の神、主は、「われわれのかたちとして、われわれに似せて(われわれが愛し合い、一つになっているように、愛し合い、われわれのように一つになるものとして)、初めの人アダムを造ってくださったのだそうです(創世記1:26)。

けれども、私たち人間の始祖アダムは、天の神、主との一つの場に留まるよりも、天の神、主のようになろうとし(創世記3:4~6)、天の神、主に対抗し、「神の一人のようになり、善悪を知る者」、 自分が善悪の判断、決定をする者になったのだそうです(創世記3:22)。

 そのとき、天の神、主は、ただちに、「女の子孫として生まれる方があり、サタンはその方のかかとにかみつくけれども、その方はサタンの頭を踏み砕く」(創世記3:15)との、救い主の約束を語られたのだそうです。

私たち人間は、その始祖アダムの性質をそのまま受け継いでいて、「神の一人のようになり、善悪を知る者」になっているのだそうです。

それで、その人間に、天の神、主が、「救い」を提供されても、人間はそれを受取ろうとしないのですね。

天の神、主は、私たち人間に、まず、自分の努力では、天の神、主と一つ心になれないもの、自分には神である主からの救いが必要な者であると悟らせる必要があったようです。




 それで、天の神、主は、一人の人アブラハムを選び出し、この一人の人から一つの民族、イスラエル民族を作って人類の代表とし、この民と、預言者モーセを通して契約を結び、「これを行えば生きることができる」、ご自身の御思いを文章にし、石の板に書き付けて与え、人間が、自分の努力で、ご自身と一つ思いになれるかどうかをやらせてみせたのだそうです。

その後の、イスラエル1300年ほどの歴史を通して明らかになったことは、天の神、主が、どんなに語り掛け、呼びかけても、人間は自分の判断の通りに行動することを選び、自分の思うままに、いよいよ天の神、主に敵対するという、人間の実態でした。

イエスのたとえ話のとおりに(マルコ12:1~12)。




 そのように、人間の反逆の実態が明らかになったとき、天の神、主は、私たち人間に、一方的に、新しい約束をされたのだそうです。

それは、ご自身の側で身代わりの代理人を立て、この、私たち人間の背きの罪をその方に背負わせて処罰し、私たち人間の背きの罪を処罰済みとしたうえで、「新しい霊」とか「聖である霊」と呼ばれる方を、受け入れる者に派遣し、この方の働きで、受け入れる者の心にご自身の思いを置いてくださって、受け入れる者がご自身と同じ思いを思うようにする(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~32)という約束でした。




 その時からさらに700年ほどが流れ、いよいよご計画の時が満ちて、「御子である神」と呼ばれる方が、ダビデ王の家系である一人の貧しい処女、マリヤの胎を通して人間イエスとして人の世に来られ、およそ33歳のころ、ローマ総督ポンテオ・ピラトの下で十字架刑での処刑を受けられ、私たちにすべての人間の背きの罪を処罰済みとしてくださったのだそうです。

 墓に葬られたイエスは、3日目、日曜日の早朝、死人の中から復活され、40日にわたって何度も弟子たちに現れて、神の国のことを語り、ご自分が生きていることを弟子たちに示されたうえで、オリーブ山から、弟子たちの見ている前で雲に迎えられ、天の「父である神」の右の座に帰られたのだそうです(使徒1:3~11)。

そして、それから10日後の、ペンテコステ(五旬節)、モーセを通して古い契約が結ばれ、律法が与えられたその記念日に、新しい契約、「聖である霊」と呼ばれる方が来られて、受け入れる者の心に「父である神」が一人一人に思っておられる御思いが来るようにするという約束が成就したのですね(使徒2:1~13)。




 その時から2000年を経ている今も、受け入れる者に「聖である霊」と呼ばれる方が来られて、いつも、いつまでも一緒にいて、受け入れる者が御思いを持つものにしてくださり、御思いを行う者にしてくださるのだそうです。イエスがそうであったように(ヨハネ5:30)。


 今日も。

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