「随所に主となれば立つところ皆真なり」を生きるようにと
主を愛する人は悪を憎む。詩編97:10
善を行って、
愚かな者たちの無知な発言を封じることが、
神の御心だからです。
自由な人として生活しなさい。
しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、
神の僕として行動しなさい。Ⅰペテロ2:15~16
(ローズンゲン日々の聖句7/14;木)
自由人は、何かをすることもできるし、何かをしないでもいられるのだそうです。
何かをしないではいられない。止めることができないのは自由ではなく、そのことの奴隷になっていることなのだそうです。
イエスによって新しい人を着た者は、自由人として、すべてのことは、してもよいのだそうです。しかし、すべてのことが有益とは限らないのですね。
自由人であれば、徳を高めることを選び取って行くこともできるのですね。
イエスによって着ている新しい人は、自由人として、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけることもできるのだそうです(Ⅰコリ10:23~24)。
イエスの十字架刑での処刑を通して受け入れる者に来てくださる「聖である霊」によって、心に来る新しい思いは、悪に対して悪をもって報いるのではなく、かえって、善をもって悪に打ち勝つ、「父である神」の自由な思いなのだそうです。
「父である神」の御思いが成ることが喜びになり、
「随所に主となれば」の境地をいただけるのだそうです。
今日も。