soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

あなたの栄冠をだれにも奪われないように

 あなたがわたしを畏れず、

  あなたの神である主を捨てたことが、

   いかに悪く、苦いことであるかを、

    味わい知るがよい。エレミヤ書2:19 




 あなたの栄冠をだれにも奪われないように、

持っているものを固く守りなさい。黙示録3:11




      (ローズンゲン日々の聖句7/29;金)




 天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者」と名乗られる方。

「父である神」、「御子である神」、「聖である霊」と呼ばれる神が、愛と尊敬において、自由意思で、自発的に一つになっておられる、

その一つを表わすかたちとして、その一つに加わる者として創造された人間。




 そして、妻エバの求めに屈して、その神との一つの場に留まらないで、もっと素晴らしい者になろうとし、

神のようになり、善悪を知るようになろうとして神に背いた始祖アダム。




 そのアダムの子孫として生まれたすべての人は、この神に対するそむきを受け継いでいるのだそうです。







 天の神、主から、特別に選ばれたイスラエルの民においても、例外ではなかったようです。

神の律法というかたちで御思いを示され、「主の仰せられたことは、みな行い、聞き従います」と答え、

「あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝の民となる。

あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」との契約を結びながら(出エジプト19:5~6、8、24:3、7)、

この神を捨て、近隣の国々の、ほかの神々を慕って行ったイスラエル。




 天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者」と名乗られる方は、エレミヤを予言者として立てて言われます。




ヤコブの家と、イスラエルのすべてのやからよ。

主のことばを聞け。

主はこう仰せられる。

「あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れ、

むなしいものに従って行って、むなしいものになったたのか。

彼らは尋ねもしなかった。

『主はどこにおられるのか。

私たちをエジプトの国から上らせた方、

私たちを、荒野の荒れた穴だらけの地、

砂漠の死の陰の地、

人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は』と。



しかし、わたしはあなたがたを、実り豊かな地に連れて入り、

その良い実を食べさせた。

ところが、あなたがたは、入って来て、わたしの国を汚し、

わたしのゆずりの地を忌みきらうべきものにした。



祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言わず、

律法を扱う者たちも、わたしを知らず、

牧者たちもわたしにそむき、

預言者たちはバアル(先住民の神)によって預言して

無益ものに従って行った。

そのため、わたしはなお、あなたがたと争う(エレミヤ2:4~9)、と。




 それで、このままで行くなら、北から敵を呼び寄せ、あなたがたを打つしかないから、

そむきをやめて、立ち帰るようにと呼びかけておられるのですね(エレミヤ1:11~19)。







 イエスの十字架刑での処刑を、自分の「生まれたときからの霊」という自分自身の処刑としていただき、

三日目に墓より、新しい霊のからだに復活し、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、

この方によって、父である神が、私たちひとりひとりに思っていてくださる御思いを、心に書き付けていただき、父である神と思いを一つにし、心を一つにして生きる生き方をいただいた者は、その「神の子」の栄冠をだれにも奪われないように、と、勧められているのですね。




 イスラエルの民が、出て来たエジプトを慕って、エジプトに帰ろうとしたように、古い人と呼ばれる、「生まれたときからの霊」という死亡手続きが終わっている「私」を生かして、「神の一人のようになり、善悪を知る者」となっている、過ぎ去った生き方に戻って、自分の理性の判断を主人とし、これに従い、自分の理性の好む神々を造ってこれを慕って、いただいた栄光を失うことがないようにと。




 死にかけている娘を助けてくださいと、イエスの足もとにひれ伏し、願った、会堂管理者ヤイロのように、

また、12年間、長血をわずらい、どんな医者にも直してもらえず、「イエスのお着物にさわることでもできれば、きっと直る」と、イエスの着物にさわっていやされた女性のように(マルコ5:21~34)、この方を私の神とし続けていくようにと。

今日も。







あなたがわたしを畏れず、あなたの神である主を捨てたことが、いかに悪く、苦いことであるかを、味わい知るがよい。エレミヤ書2:19 あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。黙示録3:11(ローズンゲン日々の聖句7/29;土)




天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者」と名乗られる方、「父である神」、「御子である神」、「聖である霊」と呼ばれる神が、愛と尊敬において、自由意思で、自発的に一つになっておられる、その一つを表わすかたちとして、その一つに加わる者として創造された人間。




そして、妻エバの求めに応じて、その神との一つの場に留まらないで、もっと素晴らしい者に、神のようになり、善悪を知るようになろうとして神に背いた始祖アダム。




そのアダムの子孫として生まれたすべての人は、この神に対するそむきを受け継いでいるのだそうです。




天の神、主から、特別に選ばれたイスラエルの民においても、例外ではなかったようです。




神の律法というかたちで御思いを示され、「主の仰せられたことは、みな行い、聞き従います」と答え、「あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝の民となる。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」との契約を結びながら(出エジプト19:5~6、8、24:3、7)、この神を捨て、近隣の国々の、ほかの神々を慕って行ったのだそうです。




天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者」と名乗られる方は、エレミヤを予言者として立てて言われます。




「ヤコブの家と、イスラエルのすべてのやからよ。




主のことばを聞け。




主はこう仰せられる。




『あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れ、




むなしいものに従って行って、むなしいものになったたのか。




彼らは尋ねもしなかった。




「主はどこにおられるのか。




私たちをエジプトの国から上らせた方、




私たちを、荒野の荒れた穴だらけの地、




砂漠の死の陰の地、




人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は」と。









しかし、わたしはあなたがたを、実り豊かな地に連れて入り、




その良い実を食べさせた。




ところが、あなたがたは、入って来て、わたしの国を汚し、




わたしのゆずりの地を忌みきらうべきものにした。









祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言わず、




律法を扱う者たちも、わたしを知らず、




牧者たちもわたしにそむき、




預言者たちはバアルによって預言して




無益ものに従って行った。




そのため、わたしはなお、あなたがたと争う」(エレミヤ2:4~9)と。




それで、このままで行くなら、北から敵を呼び寄せ、あなたがたを打つしかないから、




そむきをやめて、立ち帰るようにと呼びかけておられるのですね(エレミヤ1:11~19)。




イエスの十字架刑での処刑を、自分の「生まれたときからの霊」という自分自身の処刑としていただき、三日目に墓より、新しい霊のからだに復活し、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方によって、父である神が、私たちひとりひとりに思っていてくださる御思いを、心に書き付けていただき、父である神と思いを一つにし、心を一つにして生きる生き方をいただいた者は、その「神の子」の栄冠をだれにも奪われないように、と、勧められているのですね。




古い人と呼ばれる、「生まれたときからの霊」という死亡手続きが終わっている「私」を生かして、「神の一人のようになり、善悪を知る者」となっている、過ぎ去った生き方に戻って、自分の理性の判断を主人とし、これに従い、自分の理性の好む神々を造ってこれを慕い、栄光を失うことがないようにと。




死にかけている娘を助けてくださいと、イエスの足もとにひれ伏し、願った、会堂管理者ヤイロのように、



また、12年間、長血をわずらい、どんな医者にも直してもらえず、「イエスのお着物にさわることでもできれば、きっと直る」と、イエスの着物にさわっていやされた女性のように(マルコ5:21~34)、この方を私の神とし続けていくようにと。今日も。

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