soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

人に気に入られようと、おもねり、へつらう心にも、ご自身の公正な思いを

 あなたは弱い者を偏(かたよ)ってかばったり、


  力ある者におもねってはならない。レビ記19:15





 栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストを信じながら、


人を分け隔てしてはなりません。ヤコブ書2:1





 申命記26:1~11 


 エレミヤ書1:1~10


      (ローズンゲン日々の聖句8/29;月)
 




 私自身である、私の「生まれたときからの霊」から出て来る思いは、公正な思いではなく、人に気に入られようとする思いで、弱い者をかばい、おもねり、あるいは、力ある者にへつらう思いです。
 




 人をえこひいき、分け隔てし、金持ちや、力のある人、この世の立派な人を喜び、ていねいに接し、貧しい人や弱い人を冷たく、ぞんざいに扱う(ヤコブ2:1~9)。
 




 天の神、主、「わたしはある」という方は、この方が与えてくださった恵みを在留異国人、みなしご、やもめと分け合い、喜びを分け合ってほしいのだそうですが、その御思いが 「聖である霊」と呼ばれる方をとおして、受け入れる者の心に来るのだそうです(申命記26:11~12)。
 




 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方が、若い祭司であったエレミヤを預言者として召し出されたとき、言われた言葉は、


「わたしがあなたを遣わすどんなところにでも行き、


わたしがあなたに命じるすべての事を語れ」、


「今、わたしのことばをあなたの口に授けた」というものでした(エレミヤ1:7、9)。
 







 イエスは、「わたしはわたしを遣わした方(父である神)から聞いたことをそのまま世に告げるのです。


わたしはわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話しているのです」と言っておられます(ヨハネ8:26、28)。
 




 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちひとりひとりを通しても、してほしいと思っておられることがあるのだそうです。





 その御思いを、イエスの十字架刑での処刑と復活を通して来てくださる「聖である霊」と呼ばれる方によって、受け入れる者の心に 置いてくださり、受け入れる者を同じ思い、一つ思いを思うようにしてくださるのだそうです(エゼキエル36:25~28、使徒2:1~4)。
 




 天の神、主は、私たちに、その御思いについていく者に、「わたしが行うわざを行う」者、同労者になってほしいのだそうです(ヨハネ14:12)。


今日も。



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