soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

主のもの、主の民、主に養われる羊の群れ

 主は私たちを造られた。


  私たちは主のもの、その民、


    主に養われる羊の群れ。詩編100:3





 あなたがたは、


かつては“神の民ではなかった”が、


今は“神の民”なのです。Ⅰペテロ2:10





 歴代誌上29:9~18


 エレミヤ書3:1~10


      (ローズンゲン日々の聖句9/1;木)
 




 私たち人間は、天の神、主、「わたしはあるという者だ」と名乗られる方によって造られたものだと聖書はいうのですね。





 けれども、この方は、客観的事実として、機械的に、自動的にそうだというだけではなく、お互いの自由意思において、自発的に「この方は私の神」、「あなたは私の民」と認め合う関係になりたいのだそうです。


私たちが、「私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」と思う関係に。
 




 天の神、主、「わたしはあるという者だ」と名乗られる方は、


愛と尊敬の思いで、自由意思で、自発的に、ご自身と思いを一つにし、心を一つにする者をと願って、


まず、私たち人間が住むのに必要な環境、この宇宙と地球の自然環境を創造し、私たちが何一つ困らないように十分な準備を済ませたうえで、


「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」とおっしゃって、私たち人間の祖先、アダムとイブを造り、二人をエデンの園に置いてくださったのだそうです。


そこでは、何一つ、不自由なものはなかったのだそうです。





 けれども、アダムとイブは、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方と一つになっている場にとどまることをよりも、この方に対抗し、「自分が神のようになり、善悪を知るようになろう」として(創世記3:5)、「神のひとりのようになり、善悪を知る者になった」(創世記3:22)のだそうです。
 自分一人の判断で善悪を決定する者に。





そこから、「人は、一生、苦しんで食を得なければならなくなり、顔に汗して糧(かて)を得なければならなくなり、ついには、土に帰らなければならなくなった」(創世記3:17~19)のだそうです。
 




 そして、人は、この方に代えて、自分の都合のいい他の神々を造り、これを拝む者にもなったのですね(エレミヤ3:1~10)。
 




 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、そのような私たちとも、


なお、「思いを一つにし、心を一つにする」関係に戻りたくって、


これを赦そうと、


永遠の初めから一緒に居られ、この天地創造、人間の創造を共になさった御子である神と呼ばれる方が、「女の子孫」として(創世記3:15)、ダビデの家系のひとりの貧しい処女マリヤの胎を通して、人間イエスとして人の世に来てくださり、私たちすべての人間の身代わりとなり、すべてのそむきの罪の責任を一身に背負って十字架刑での処刑を受けてくださって、私たちのすべてのそむきの罪が処刑済みとしていただける道を開いてくださったのだそうです。
 




 その上で、このイエスによって完了した赦しを受け取る者に、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方によって、受け入れる者の心に、一人ひとりに対して思っていらっしゃるご自身の御思いを書き付けてくださり、受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、一つ心になり、一人ひとりを通してしようと思っておられることを私たちそれぞれがするようにしてくださるのだそうです。
 




 「あなたがたは、かつては神の民ではなかったが、今は神の民です」と言ってもらえる関係に入れてもらえるのだそうです。
 




 そして、ダビデ王が、エルサレム神殿の建設のためにささげものをしたとき言っているように、私たちも同じ思いにしていただけるのだそうです。
 




「私たちの神、主よ。


あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。


主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳はあなたのものです。


天にあるもの地にあるものはみなそうです。


主よ。王国もあなたのものです。


あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。


富と誉れは御前から出ます。


あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、


あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。
 




今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。


まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。


このようにみずからすすんでささげる力を保っていたとしても、


すべてはあなたから出たのであり、


私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。
 




私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、寄留している者です。


地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。
 




私たちの神、主よ。


あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意したこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。
 




私の神。


あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。


私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。


今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、


私は喜びのうちに見ました。
 




私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。


御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。


彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください」(歴代誌上29:9~18新改訳)と。





今日も。



イメージ 1












[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]









"哲学・思想 ブログランキングへ"









[269RANKのランキングサイト]

×

非ログインユーザーとして返信する