soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

この希望は、失望に終わることがない

 主を畏れる人よ、


  主に依り頼め。詩編115:11





 希望は私たちをあざむくことがありません。


私たちの心に与えられている聖霊によって、


神の愛が私たちの心に注がれているからです。ロマ書5:5





 ロマ書4:18~25


 エレミヤ書21:1~14


      (ローズンゲン日々の聖句9/17;土)
 




 あのイエスは、私たちの罪のために死に渡され、


これを受け取る者たちが義と認められるために、よみがえられたのだそうです。


この、イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる者は、


その信仰が義と認められるのだそうです。





 ちょうど、アブラハムが、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から、


「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。


あなたの子孫はこのようになる」と言われ、


これを信じて義と認められ(創世記15:5~6)、妻のサラはうまずめであり、さ


らに、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、


90歳のサラの胎が死んでいることを認めても、


彼は、神の約束を疑うようなことはせず、


反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、


神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じ、


その信仰が義と認められたように(ロマ4:18~25)。
 




 ですから、恵みによって信仰に導きいれられ、信仰によって義と認められた者は、イエスによって、神との平和を持ち、神の栄光を望んで大いに喜ぶのだそうです。
 




 そればかりではなく、患難さえも喜ぶのだそうです。


それは、患難が忍耐を生み出し、


忍耐が練られた品性を生み出し、


練られた品性が希望を生みだすのだそうですから。
 




 この希望は失望に終わることはないのだそうです。


なぜなら、受け入れる者に来てくださる聖である霊と呼ばれる方によって、


神の愛が受け取る者の心に注がれるのだそうですから。
 




 私たちがまだ弱かったとき、イエスは定められた時に、


不敬虔な者のために十字架刑を受け、死んでくださいました。


正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。


情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。


しかし私たちがまだ罪人であったとき、


イエスが私たちのために死んでくださったことにより、


神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしてくださっているのだそうです(ロマ5:1~8)。
 




 この方に信頼して、踏み出してみればいいのだそうです。


今日も。



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