soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

 私の頭に香油を注ぎ、私の杯をあふれさせ

 私の敵を前にしてもあなたを私に食卓を整えて下さる。
  私の頭に香油を注ぎ
    私の杯を溢れさせて下さる。詩編23:5


 イエスがハンセン病シモ ンの食卓につかれた時、
女がナルドの香油壺を持って来て壊し、
イエスの頭に注いだ。
無駄遣いだと憤慨する人たちにイエスは
「するままにさせておけ。良い事をしてくれたのだ」と言われた。ルコ14:3、4、6 


 ヤコブ書1:1~13
 エレミヤ書25:1~14
      (ローズンゲン日々の聖句9/20;火)


 天の神、主、「わたしはある」という者と名乗られる方。
「父」である神と呼ばれる方、「御子」である神と呼ばれる方、「聖である霊」と呼ばれる方は、
それぞれ、全知であり、全能であり、永遠・不変の方なのだそうです。


 そうでありながら、それぞれが自分の思った道を行く方ではなく、
愛し合い、お互いを大切に思い合っておられる方。


 それで、機械的にでもなく、「そうあるべきだから」ということでもなく、
自由意思で、自分から進んで、「父」である神は、「御子」である方、「聖である霊」と呼ばれる方に自分の思いのすべてを明かしておられ、「御子」である方、「聖である霊」と呼ばれる方は、「父」への愛と尊敬のゆえに、「父」である方の御思いがなることを喜びとし、自分の存在意義としておられ、「父」である方の御思いのとおりに行動しておられる、
思いを「一つ」にし、心を「一つ」にし、行動を「一つ」にし、存在を「一つ」にしておられる方なのだそうです(ヨハネ8:28、10:30、12:50、14:31,16:14)。



 そして、天の神、主、「わたしはある」と名乗られる方は、その、愛のゆえに、自由意思で、自発的に、「一つ」になっている関係に加わり、その「一つ」になっている関係を具現するもの、具体的に見える形で表すものがもっと欲しいと願われて、私たち、人間を造ろうと思われ、私たち人間を造ってくださったのだそうです(創世記1:26)。



 けれども、最初の人、アダムとエバは、天の神、主との「一つ」になっている関係に留まることをせず、もっと素晴らしい者に、「神のひとりようになり、善悪を知るようになろう」としたのだそうです(創世記3:5、22)。
自分の理性を神とし、自分の理性の善悪の判断のとおりを実現しようとする者に。


 それで、アダムとエバの関係も、愛し合い、「一つ」になっている関係から、失敗の責任を相手になすりつけ合い、妻は夫を情にからめて自分の思うとおりに動かそうとし、夫も妻を支配しようとする関係が始まり、今日に至っているのだそうです(創世記3:16)。



 神の民として選ばれ、「あなたの仰せられたことはみな行い、聞き従います」と応えて神の民となる契約を結んだイスラエルの民(出エジプト24:7)。


 しかし、彼らも「神のひとりのようになり、善悪を知るようになろう」とした者の子孫であることから逃れることはできなかったようです。
エレミヤが預言しているとおりに。


 「この23年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。
また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。


 主は仰せられた。『さあ、おのおの、悪の道から、あなたがたの悪い行いから立ち返り、主があなたがたと先祖たちに与えた土地で、いつまでも、とこしえに住め。
ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んではならない。あなたがたの手で造った物によって、わたしの怒りを引き起こしてはならない。そうでないと、わたしはあなたがたにわざわいを与える。


 それでも、あなたがたはわたしに聞き従わなかった。――主の御告げ――。』
それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。『あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったために、見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる。――主の御告げ―― すなわち、わたしのしもべバビロンの王メブカデレザルを呼び寄せて、この国と、その住民と、その回りのすべての国々とを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする。


 これらの国々はバビロンの王に70年仕える。70年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、――主の御告げ―― またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする(エレミヤ25:3~12)と。



 けれども、天の神、主、「わたしはある」という者と名乗られる方は、最初の、人間創造の目的を放棄されることなく、「御子」であるの方のいのちを贖(あがな)いの代価として支払って人間のそむきの罪を赦し、
この赦しを受け取った者の、「善悪を知る者」になっている、「生まれた時からの霊」を処刑済みとして手続してくださって、新たに、受け入れる者に「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださり、この方によって、ご自身の、私たちひとりひとりに思っておられる御思いを受け入れる者の心に置いてくださって、受け入れる者が、「生まれた時からの霊」から来る思いによって打はなく、「聖である霊」と呼ばれる方から来る、ご自身の御思いによって生きるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。



 この新しい生き方をいただいていく者に、天の神、主は、ダビデが詩編23篇でうたっているように、敵の前、大きな困難の中であっても、食事をととのえ、頭に油をそそいで、溢れるようにしてくださり、いのちの日の限り、いつくしみと恵みで包んでくださり、いつも、「一つになっている」、一緒にいる喜びで満たしてくださるのだそうです。



 たしかに、この世にあっては困難なことがあります。
しかし、試練により、信仰がためされ、忍耐が生じ、それによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者にしていただけるのだそうです。
知恵に欠けた出来事に出会うとき、神に願っていくなら、惜しげもなく、とがめることなく与えていただき、
貧しい境遇にある人は、与えていただいている高い身分を誇りとし、
富んでいる人は、草の花のように過ぎ去っていく富に頼まず、自分が低くされたことを誇りとし、
試練に耐え抜いて、神を愛する者、神と思いを一つにして歩む者に約束された、いのちの冠を受けるよう、運んでいただけるのだそうです(ヤコブ1:3~12)。


 ベタニヤのマリヤが、自分の宝物であるナルドの香油を、壺ごと、イエスの頭に注ぎ、足に塗り、イエスに喜ばれたように感謝をささげながら。
今日も。
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