soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

あの方の御思い、御言葉、諭しを心に置いていただいて

 諭し(さとし)をとらえて放してはならない。


それを守れ。それはあなたの命だ。箴言4:13





 私のこの命令は、


清い心と正しい良心と


純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。Ⅰテモテ1:5





 Ⅰテサロニケ5:(1~3)4~8


 イザヤ書60:15~22


      (ローズンゲン日々の聖句12/1;木)
 




 イエスは、自らは全知、全能、永遠不変の方でありながら、「父である神」への愛と尊敬のゆえに、自分の思いによって生きるのではなく「父である神」の御思いが成ることだけを願って生きられた方なのだそうです(ヨハネ6:38、8:28)。





 それで、ゲッセマネの園でも「父よ。みこころならば、この杯(十字架刑での処刑)をわたしから取りのけてください。


しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42)と祈られ、


御父のみこころのとおりに、神に呪われた者、罪人として十字架刑を受け切って行かれたのだそうです。
 




 私たちも、「父である神」の、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)との願いによって、「父である神」、「御子である神」、「聖である霊」と呼ばれる神が、愛と尊敬において、自由意思で、自発的に一つになっておられる、思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる、


その一つに、愛と尊敬をもって、自由意思で、自発的に加わる者として造られ、


イエスは、その「一つ」を回復するために私たちに代わって十字架刑での処刑を受けられたのだそうです(ヨハネ17:11、21~23)。
 




 それで、天の神、主の約束の言葉を受け取って、


自分自身は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとして、


天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に対抗し、反逆している者であることを知り、認めて、


「生まれたときからの霊」と言う自分自身をイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、自分自身である「生まれたときからの霊」を処刑されたもの、死んだものとしていただいた者は、復活し、天の「父である神」の右の座に帰られたイエスが派遣してくださるもう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えするなら、


この方が、イエスがそうであったように、「父である神」のひとり一人に思っておられる御思いを心に置いてくださるので(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、イザヤ59:21)、


受け入れる者は、「父である神」の御思い、その言葉、諭しを心に持つ者になり、


清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指して生きる者にしていただけるのだそうです。


御思い、その言葉、諭しに心を向けながら。


今日も。






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