いと高き方が、一番低い所まで降りてくださって
主において常に喜びなさい。
重ねて言います。喜びなさい。
主はすぐ近くにおられます。フィリピ4:4~5(12/18の週の聖句)
私たちの神、主に並ぶものがあろうか。
主は御座を高く置き、
なお、低く下って天と地をご覧になる。
弱い者をちりの中から起こして下さる。詩編113:5~7
パウロの言葉:
キリストは、
弱さのゆえに十字架につけられましたが、
神の力によって生きておられるのです。
私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、
しかし、あなたがたに対しては、
神の力によってキリストと共に生きています。Ⅱコリント13:4
ルカ1:(39~45)46~55(56)
詩編130
(ローズンゲン日々の聖句12/18;Ⅲ日、降臨節第4主日)
「御子である神」、
天のいと高きところにおられ、
天使の万軍に号令し、天使の万軍を思いのままに動かしておられる方が、
私たちを愛している、その愛の弱さのゆえに、
その栄光の座を後にして、人間イエスとして人の世に下られたのだそうです。
低く低くなり、その生まれも、家の中には入るところがなくて、
家畜小屋の、石の冷たい飼葉おけに寝かされ、
たぶん、死体を包むために用意してあったのであろう、
白い布にくるまって寝かされていたのだそうです。
貧しい大工の息子として、
「ナザレからなんの良い者が出ようか」と言われる片田舎に育ち、
最後のエルサレム入城の時には、
王として軍を従え、軍馬に乗って威風堂々とではなく、
ろばに、しかも、まだ人を乗せたことのない子ろばに乗られたのだそうです。
そして、ご自分の民に捨てられ、
ご自分の民から「除け。除け。十字架につけろ」と要求され、
反逆者として十字架刑で処刑され、
神に呪われた者として天と地との間に掲げられさらしものになったのだそうです。
そして、陰府のどん底、死人の世界のどん底にまで下られたのだそうです。
私たちを赦すために、
私たち、すべての人間の、すべての反逆の責任を、自分から背負って。
けれども、「父である神」は、
その全能の御力によって、この方を陰府のどん底から引き上げ、
新しい霊のからだに復活させ、もとおられたご自分の右の座に返されたのだそうです。
「父である神」の御心に従い、十字架刑での処刑を受けられ、
私たち人間を贖う(あがなう)買い戻しの代金としてご自分のいのちを献げてくださったイエスは、
天の「父である神」の右の座にあって、
もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。
この方は、受け入れるに近く近く、内に来られて、
受け入れる者の心に「父である神」が一人ひとりに思ってくださっている御思いを置いてくださるので、
受け入れる者は「父である神」と同じ思いを持ち、一つ心になって、
「父である神」がしようと思っておられることをしていく者、
「父である神」と一つ行動をとる者にしていただけるのだそうです。
それで、マリヤのように、詩編の作者のように歌うのですね。
「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。
ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」(ルカ1:46~49新改訳)と。
「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。
主よ。わたしの声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。
主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。
しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れ(畏れ)られます。
私は主を待ち望みます。
私のたましいは、待ち望みます。
私は主のみことばを待ちます。
私のたましいは、夜回りが夜明けを待つにまさって、主を待ちます。
イスラエルよ。主を待て。
主、「わたしはある」と名乗られる方には、恵みがあり、豊かな贖いがある。
主は、すべての不義からイスラエルを贖いだされる」(詩篇130新改訳)と。
この新しい週も。
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