渇く者が水を求めるように
渇きを覚えている者は皆、
水のところに来るがよい。イザヤ書55:1
大勢の弟子と群衆が、
ユダ全土とエルサレムから、
またティルスやシドンの海岸地方から、
イエスの教えを聞くため、
また病気をいやしていただくために来ていた。
汚れた霊に悩まされていた人々も癒して戴いた。ルカ6:17~18
ロマ4:1~8
ルカ9:57~62(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句2/15;水)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、おっしゃるのですね。
「さあ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金を払わないで、わたしから買いなさい」と。
そのように、イエスのところにも大勢の人たちがイエスの話を聞こうと集まって来たのだそうです。
病気の人たちも。そして、癒して戴いたのだそうです。
金を払ったなら、当然の権利として、その払ったものを得ることになります。
何かの働きをしたものも、その働きにふさわしい報酬を受けます。
しかし、何の働きもない者が、不敬虔なものを義と認めてくださる方を信じるなら、〔父である神〕は、その信仰(信頼)を義とみなしてくださるのだそうです。
私たちが、買うための代価を、義と認められるための働きを、〔御子である神〕が人間イエスとなられて、代価が払えない、義の行いのない者に代わって、ご自分のいのちを払っていてくださるのだそうですから。
その聖書の言葉を信用して、受け取っていくなら、天の神、主は、その信頼を義と認めてくださるようですね。
ダビデが詩編32:1~2でうたっているように。
「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは幸いである。
主が罪を認めない人は幸いである」(ロマ4:7~8)と。
私たちに代わって十字架に架かられ、墓に葬られ、三日目の日曜日の早朝、墓より、新しい霊のからだに復活し、天の〔父である神〕の右の座、〔御子である神〕の位に帰られたイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
この方が、受け入れる者のうちに派遣されて来て、受け入れる者の心に、〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。
それで、受け入れる者は、この部分において、〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になって、〔父である神〕が私たち一人一人を通してしようと思われることをしていく者にしていただけるのだそうです。
だから、自分の側には何にもなくても、「金のない者も出て来て、わたしから買え」とおっしゃられるこの方に信頼して、この方に相談し、見ていただきながら、何もないまま、手ぶらで出て行ってみると、豊かな水を飲む、この方の御業を体験することになるのだそうです。
今日も。
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