soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

顔と顔を合わせて見る、そのときを

 なぜ、私の痛みはやむことがなく、


私の傷は重くて、いえないのですか。


あなたは私を裏切り、


当てにならない流れのようになりました。エレミヤ書15:18





 私たちは、


今は、鏡に映ったものを見ている。


だが、そのときには、


顔と顔とを合わせて見ることになる。Ⅰコリント13:12





 Ⅰヨハネ1:8~2:2(3~6)


 ルカ18:31~43(通読箇所)


  (ローズンゲン日々の聖句3/16;木)




 
神に祈っても答えてもらえない、約束の言葉はどうなってしまったのだろうと思えるようなときがあります。
神は、夏の暑さの中で、水を求めて川にたどり着いてみると、水がない、かれてしまった川のように、当てにならない方のように思えるときが。




そのように、今の、天の神、主との私たちの関係は、銅版を磨いた昔の鏡に映っているものを見ているようにおぼろげなのです。
けれども、顔と顔を合わせて見る、はっきりとした事実として体験する「そのとき」が来るのだそうです。




 
約束の言葉はこうでした。


「見よ。その日が来る。――主のみ告げ― 


その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。


――主のみ告げ―― 
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。
  ――主のみ告げ―― 
わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:31~33新改訳)
 




「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、~


私はすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。~


私の霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」(エゼキエル36:25~27)
 




 そして、預言の言葉のとおりに、
 〔御子である神〕と呼ばれる方が、天の栄光の座を後にして、人となって人の世に来られ、十字架刑での処刑を受けて(ルカ18:31~33)、私たちの汚れ、罪を処分してくださり、
 約束の〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださっている今は、
この出来事を受け取った者は、心に、神の愛の思いが来て、イエス様のように、〔父である神〕の御思がわが思いとなって生きるはずなのですね(Ⅰヨハネ2:3~6)。





 けれども、この点についても、私たちの現実の歩みは、銅版の鏡に写っているものを見ているようにおぼろげで、むしろ、〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いによって行動することばかりの毎日です。


約束の言葉は、「水が枯れてしまった川」のように、空しい、当てにならないもののように、


私には成らない言葉のように感じます。
 




 けれども、「顔と顔を合わせて見る」ような、はっきりとした、鮮明な事実として体験する、「そのとき」が来るのだそうです。
 




 エリコ街道で物乞いをしていた盲人のバルテマイは、イエスがお通りになると聞いて、イエスに向かって、大声で「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立て続けたのだそうです。


人々が黙らせようとしても黙らずに。


そして、イエスから「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられ、


「主よ。目が見えるようになることです」と答えて、


イエスから「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直した」とお言葉をいただいて目が見えるようになり、


イエスについて行く者になったのだそうです(ルカ18:35~43)
 




 「約束の言葉は成らない、当てにならない」との思いが内側に湧いて来る私たちも、このバルテマイのように、求め続け、顔と顔を合わせて見る「そのとき」を見すえながら生きるのですね。


今日を。









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