soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

自分の理性の判断を最善として背き続け、平和の道をわきまえない私たちを

なぜ、わたしと争い、
わたしに背き続けるのか、と主は言われる。エレミヤ書2:29


 もしこの日に、
お前も平和への道をわきまえていたなら。ルカ19:42


 ヨハネ14:7~14
 使徒9:10~19a(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句6/17;土)


 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、ご自分の民に、ご自身に立ち返るようにと、何度も預言者を遣わしますが、民は自分の理性の判断で善しとするものを神とし、ご自分に帰ってこようとはしないと嘆かれるのですね。


 イエスは、ご自分が、ご自分の民の身代わりとなり、民のそむきの罪をご自身に負って、いよいよ十字架刑での処刑を受ける、そのための最後のエルサレム入場をされるそのとき、
泣いてこのように言われたのだそうです。


 そして、「やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。
それはおまえが、「神の訪れの時を知らなかったからだ」(ルカ19:42~44)と。


 そして、それから40年ほど後のこと、紀元70年、ユダヤはローマに対して反乱を起こし、エルサレムはローマ軍に囲まれ、このイエスの言葉のとおりに徹底的に破壊され、民は世界中に散らされていったのだそうです。(そして、それから2000年ほどを経た今日、預言の言葉のとおりに、民はまた、イスラエルに帰って来ていますが。)


 また、イエスは言われました。
「わたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。
わたしを見た者は、父を見たのです。
わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。
わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。
わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」(ヨハネ14:7~14)と。


このことばの中に、愛のゆえに、自由意思で自発的に〔父である神〕と、完全に一つになっておられるイエスと〔父である神〕との関係を見ることができるわけですが、
そのような関係にあるものをと願われて、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)造られた私たち、人間。


けれども、最初の人アダムは、この天の神、主との「一つ」になる関係を捨て、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)となる道を選び取り、
天の神、主の御思いよりも、自分の理性による、善悪の判断を善しとし、
自分の思うままに生きる者になったのだそうです。


 サウロ(後の使徒パウロ)も、神の律法を守る努力によってではなく、イエスを信じることで神から義と認めてもらえるなどというイエスの教えは、神に逆らう邪教であり、無くしてしまわなければならないものだとの自分の理性の善悪の判断によって、だれよりも激しく、熱心に、イエスの弟子たちを捕らえ、殺そうとしていたのだそうですが、
イエスは、そのサウロをひっくり返し、
「わたし(イエス)の名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器」(使徒9:15)として、天の神、主の御思いのままに用いられる者となって行ったのだそうです。


 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちにも、
イエスの十字架刑での処刑によって、神にそむき続け、平和の道を知らない、滅びに向かって進んでいくばかりの、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている自分自身である〔生まれた時からの私〕という霊を処刑されたものとしてくださり、
このイエスを通して来てくださる「聖である霊」と呼ばれる方によって、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いと一つ心になって、
御父がしようと思っておられることをしていく者に(ヨハネ14:12)、
イエスに似た者に
イエスと栄光を共にするものにしてくださるのだそうです。
今日も。
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