soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

私たちを、見放すことも、見捨てることもせず

わたしはあなたを見放すことも、
見捨てることもない。ヨシュア記1:5




 イエスの言葉:


あなたがたは悲しむが、
その悲しみは喜びに変わる。ヨハネ16:20




 マタイ7:21~27(28~29)


 イザヤ書1:1~9(通読箇所)


   (ローズンゲン日々聖句11/19;月)




 モーセの後を継いだヨシュアに、


天の神、主、
「『わたしはある(Iam)』という者」と名乗られる方は、


このように言われたのだそうです。


 私たちにも言っていてくださるのでしょうね。
「あなたを見放すことも、見捨てることもない」と。


 イエスは予告されました。
ご自身の死に直面して、弟子たちは悲しむ。
しかし、その悲しみは喜びに変わる、と。


 それは、イエスは、
死人の中から新しい霊のからだに復活されて、
弟子たちは、その、復活されたイエスに会うことになるから、
なのだそうです。


 イエスは、さらに言われます。
「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、
天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです」と。


 私たち、
〔父である神〕の御心を示され、
それを自分の努力で行いなさいと言われても、行い得ない者、
「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
善を行う人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10~12)ので、
「律法を行なうことによっては、
だれひとり神の前に義と認められない」(ロマ3:20)ということを前提にして、
「〔父である神〕のみこころを行なう」とはどういうことなのか、を考えるとき、
律法とは別に、律法と預言者によって証しされている道とは、
〔新しい霊〕、〔わたしの霊〕と言われる方によって、
「受け入れる者に新しい心を与え、
わたしの律法を彼らの中に置き、
彼らの心にこれを書きしるし、
わたしのおきてに従って歩ませ、
わたしの定めを守り行わせる」(エレミヤ31:33、エゼキエル36:25~28)ことなのでしょうね。


〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いによって生きるのではなく、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置き、
書き付けてくださる〔父である神〕の御思いを土台として、生きていく、
岩の上に人生を建て上げていく(マタイ7:21~27)、
新しい生き方が始まるのだそうです。


 悲しみが喜びに変わって。
今日も。


(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)


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