自分のために蒔くのか、あの方のために蒔くのか。
のどをからして叫べ、
黙すな、声をあげよ、角笛のように。
わたしの民に、その背きを告げよ。イザヤ書58:1
思い違いをしてはいけません。
神は、人から侮られることはありません。
人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。ガラテヤ書6:7
(ローズンゲン日々の聖句5/8;金)
背き、それは、天の神、主と一つになっていることを捨て、
自分の判断だけで善悪を決め、
他の者を、更には神である方を自分の判断に従わせようとする生き方のことなのですね。
そこでは、自分で神を選び、
あるいは自分の欲を満たしてくれる、自分に都合のいい神を作りだしていくようになるのだそうです。
多くの民の中から選ばれて、律法を与えられ、宝の民と呼ばれ、
神の民、選民と自負していたイスラエルの民においても、この方に背くことにおいて例外ではなかったようです。
天の神、主は、人がどのように生きたか、その結果を正しく公平にその人に返されるのだそうです。
「生れたときからの私」を良くし、高め、立派にしていくためだけに人生を使った者は、その背きを問われることになるのだそうです。
しかし、自分が背くしかない者であることを認めて、
差し出していて下さるイエスの十字架刑での処刑を私の処刑と受けとり、
葬られ、復活し、天の父である方の右の座に着かれたイエスが派遣して下さる
「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、
この方が心に起こして下さる思いを我が思いとして、
その思いのように行動していく者は永遠の命に入ることになるのだそうです(ガラテヤ6:8)。
天の御国ではそのような生き方だけが通用するところのようですから。
天の神、主と呼ばれる方は、御自分と心を一つにする者を求めておられるのだそうですね。
今日も。
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