soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

心に留め、心にかける思いも与えて下さるのですね。あの方が。


主の言葉:
誰におびえ、誰を恐れて、お前は欺くのか。
お前はわたしを心に留めず、
心にかけることもしなかった。
イザヤ書57:11


ペトロは、
「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。
そして外に出て、激しく泣いた。
マタイ26:75

        (ローズンゲン日々の聖句5/9;土)


 誰かから強制されたり、脅迫されたりしてではなく、

私たちは神である方を心にも留めず、心にかけることもしない者なのですね。
それが、あの方との一つをやめ、自分が善悪を知る者となった人間の本性なのでしょうね。


 イエスと3年半、寝食を共にした弟子たちでしたが、

イエスから「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまづきます」と言われ、

ペテロは「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」

「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と答えたのだそうですが、

その数時間後、イエスが捕えられたとき、女中から「この人も、イエスといっしょにいました」と言われ、

あわてて「いいえ、私はあの人を知りません」と言い張ったのだそうです。三度も。


 そのとき、振り返られ、ペテロを見つめられたイエスの優しい眼差しにふれ、

ペテロは外に飛び出し、激しく泣いたのだそうです。


 イエスは、そして、天の神、主は、私たち人間が、御自身のことを心に留めず、心にかけることもしないで、

自分を立派にすることに心を奪われているものであることをよくご存じなのですね。


 それで、イスラエル1500年の歴史を通して、人間には期待できない者であることをはっきりさせたうえで、

一方的に、御自身の側で、救いの道を用意して下さったのだそうです。


 イエスの十字架刑での処刑を通して、私たちの内に来て下さる、聖である霊と呼ばれる方によって、

私たちの心にも、御自身のことを心に留め、心にかける思いを置いて下さるのだそうです。
今日も。

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