soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

新しい人を着て、聖なる者に

 あなたたちは聖なる者となりなさい。

 あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。レビ記19:2




 あなたがたは、

神にかたどって造られた新しい人を身に着け、

真理に基づいた正しい清い生活を送るようにしなければなりません。エフェソ書4:24




      (ローズンゲン日々の聖句5/18;水)




 「聖なる者」とは、「別なる者」、「区別された者」、「取り分けられた者」というような意味なのだそうですね。

 天の神、主と呼ばれている方は、人間が作り出した神々、地上の霊どもとはまったく違う、区別された方なのだそうです。




 人間は、そして、天の神、主に反逆し、地に投げ落とされた霊どもも、本当は、天の神、主と一つになる者を、御自身と思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにする者をとの願いにより、天の神、主によって造られた者なのだそうです。




 けれども、その霊どもは、そして、これに誘われた人間・アダムは、天の神、主と一つの場にとどまっていることを不満に思い、天の神、主に対抗し、天の神、主のひとりのようになろうとし、「善悪を知る者」になったのだそうです。




 神のひとりのようになり、自分がトップになり、全部を、神さえも支配し、良きもののすべてを、自分一人で独占する、その思いのままに生きる者に。




 それで、人が心に思い計ることはみな、いつも悪に傾き、地は神の前に堕落し、暴虐で満ちることになったのだそうです。

肉親の女に近づいてこれを犯す者。

母を、父の妻を犯し、父をはずかしめる者に。

父の娘、母の娘である姉妹を、あるいは、息子の娘、娘の娘を犯して、自分自身をはずかしめる者に。

父の姉妹、母の姉妹と関係をもって父や母をはずかしめる者に。

息子の妻、兄弟の妻と関係をもって、息子や兄弟をはずかしめる者に。

女とその娘、その姉妹と関係をもって妻を苦しめる者に。

月のさわりの者と、また、隣人の妻と関係を持ち、自分を汚す者となっているのですね。

そのようなことをしていない者も、心の思いにおいて。




 あるいは、自分の子どもを悪霊にささげる者、女と寝るように男と寝る者、動物と寝て、あるいは、動物の前に立って、これと伏して、身を汚す者になっているのだそうです (レビ18章)。




 また、父と母を軽んじる者に、貧しい者、在留異国人を思いやらないで、畑の隅々まで刈りつくし、落穂も残さない者、ぶどうの実を取りつくして、彼らのために残そうとしない者に。




 盗む者、互いに偽ってあざむく者、偽り誓う者、隣人をしいたげ、かすめ奪う者、賃金の支払いを渋る者、耳の聞こえない人をあなどり、目の見えない人の前につまずく物を置く者に。




 また、不正な裁判、弱い者におもねり、強いにへつらって、正しくさばかない者に。

人々の間を歩き回って、人を中傷する者に。

隣人の血を流そうとし、心の中で身内のものを憎む者に。

自分で復讐しようとし、人を恨む者になっているのだそうです(レビ19:1~18)。 







 天の神、主は、私たちに、それらから「区別された者」、「取り出され、取り分けられた者」となり、ご自身と同じ思い、同じ考えの者になって欲しいのだそうです。




 それで、ひとりの人、アブラハムから一つの民族を造り、彼らと契約を結び、ご自身の御思いを「戒め」のかたちで、文章で示し、心を一つにする者になるようにと、この人間の歴史の中で実験をされたのです。

 けれども、このイスラエル民族1500年の歩みを通してはっきりされたことは、人は自分の働き、努力によっては、天の神、主と心を一つにする者になり、自分を「聖」である者(区別する、取り分けられた者)とはなれない、という現実だったのだそうです。




 まさしく、

「義人はいない。ひとりもいない。

悟りのある人はいない。神を求める人はいない。

すべての人が迷い出て、

みな、ともに無益な者となった。

善を行う人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10~12、新改訳)、という現実だったのだそうです。




 それで、天の神、主は、私たち人間が、「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」とする、その「生まれたときからの霊」を脱ぎ捨て、神にかたどって造られた「新しい人」を着るようにと、最初からのご計画を実行されたのだそうです。




 それは、永遠の昔から共におられ、この天地創造、人間の創造を共にされた「御子である神」と呼ばれる方を、男のそむきの罪を引き継いでいない、「女の子孫」 (創世記3:15)として、人の世に生まれさせ、この方に、すべての人間のそむきの罪を負わせ、すべての人間の身代わりとして立てて、十字架刑で処刑し、天と地の間に高く掲げて、呪われたものとしてさらしものにすることだったのだそうです。




 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣し、受け入れる者の心にご自身の思いを書き付け、受け入れる者がご自身と同じ思い、一つ思いを持つ者とし、新しい心、新しい人を着た者として生きるようにしてくださることだったのだそうです。




 確かに、今から2000年ほど前、ナザレ村出身のイエスが、十字架刑での処刑を受けられた今は、そして、弟子たちに「聖である霊」と呼ばれる方が来られ、「生まれたときからの霊」をイエスの十字架に合わせられた者として、、十字架刑で処刑されたものとしていただき、「神にかたどって造られた新しい人を着る」、新しく生まれる道が開けている今は、「われわれが、愛しあうゆえにひとつになっているように、愛によってわれわれと一つになる」(創世記1:26)ことを受け入れる者には、来てくださるのだそうですね。「聖である霊」と呼ばれる方が。

 そして、「聖なる者」、「取り分けられた者」として、ご自身と思いを一つにし、ご自身が、その人を通してしようと思っておられることをしていくようにしてくださるのだそうです。


今日も。

×

非ログインユーザーとして返信する