soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

自分の実体を知り、救いを求める者に恵みを

神は、

  高慢な者を敵とし、

    謙遜な者には恵みをお与えになる。Ⅰペテロ5:5

        (8/7の週の聖句)




 お前が造った神々はどこにいるのか。

彼らが立ち上がればよいのだ、

災難に遭ったお前を救いうるのならば。エレミヤ書2:28 




 あなたがたの教師は

キリストお一人だけである。マタイ23:10




 ルカ18:9~14

 詩編119:41~48

      (ローズンゲン日々の聖句8/7;日)




 私たち、「神のひとりのようになろう。善悪を知る者になろう」(創世記3:5、22)としている者は、創造者に対抗し、逆らう者になっているのだそうです。




 それで、創造者を認めず、創造者が恵みとして用意してくださったものの中で存在していながら、自分が自分で生きて来たかのように思っている、

それは思い上がりなのだそうです。




 自分を造られた方を認め、自分が自分自身では存在できない者であることを認めることが謙遜なのだそうですね。







 創造者から、御思いを示され、「心を一つにして歩むなら、あなたがたはわたしの民となる」と告げられ、「私たちは、あなたを私の神とし、あなたのことばに従い、あなたと心を一つにして歩みます」と答えて、「神の民となる契約」を結んだイスラエル(出エジプト19:4~8、24:3~8)。




 けれども、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」であっては、特別な扱いを受けた神の民と言えども、やはり、この方に対抗し、さからい、自分の理性の判断のままに、近隣の国の神々を慕い、「わたしに立ち返れ」との呼びかけにも応じず、かえって「あきらめられません。私は他国の男たちが好きです。それについて行きたいのです」(エレミヤ2:20~25)という、さかりのときの、欲情にあえぐ野ろばのようだったのだそうです。




 それで、創造者、天の神、主、「私はある。私はあるという者」と名乗られる方は、言われるのだそうです。




 「彼らは木に向かっては、『あなたは私の父』、石に向かっては、『あなたは私を産んだ』と言っている。実に、彼らはわたしに背を向けて、顔を向けなかった。




 それなのに、わざわいのときには、『立って、私たちを救ってください』と言う。

では、あなたが造った神々はどこにいるのか。

あなたのわざわいのときには、彼らが立って救えばよい。

ユダよ。あなたの神々は、あなたの町の数ほどもいるからだ」(エレミヤ2:20~28)と。




 けれども、そう言いながらも、天の神、主、「私はある。私はあるという者」と名乗られる方は、そのような私たちをなお、惜しんで、永遠の昔から一緒に居られ、人間の創造、天地創造を共になさった「御子である神」を人間イエスとして、女の子孫として(創世記3:15)、人の世に生まれさせ、「ただお一人の教師、救い主」とし立て、この方が、およそ33歳の頃、この方を私たちすべての人間の身代わりとし、すべての人間のすべてのそむきの責任を負わせて十字架刑で処刑し、受け入れる者を、処刑済みとして、処罰の残っている罪がない者として手続きしてくださるのだそうです。




 そして、自分のそむきの実態を知って、認めて、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と願う者を受け入れ、イエスの義を着せて(ルカ18:9~14)、「子」の身分を与えてくださる方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、「子」としてくださり、ご自身と思いを一つにし、心を一つにして生きる者に、御思いを慕い求め、御思いを喜び、御思いに思いを潜める者(詩篇119:41~48)にもしてくださるのだそうです。

この新しい週も。


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