soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

 あなたのお心一つで

 多くの者が私に言います。
  「彼には神の救いなどあるものか」と。
主よ、それでも、あなたはわたしの盾、
私の栄え、私の頭を高く上げてくださる方。詩編3:3~4


 重い皮膚病の人が来て、
「御心ならば私を清くできます」と懇願すると、
イエスは深く憐れんで手を差し伸べ彼に触れ、
「よろしい。清くなれ」と言われた。マルコ1:40~41


 イザヤ書38:9~20
 エレミヤ書16:1~13
      (ローズンゲン日々の聖句9/13;火)


 人々が、「彼には神の救いなどあるものか」と言い、また、自分自身が「神がこんな私を助けてくれることなどあるはずがない」と思う、そんな時にも、なお、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私の救い主なのですね。


 重い皮膚病(古い訳ではらい病)にかかり、薬もなく、治る見込みもなく、社会からも締め出されていた人。
けれども、一縷の望みをかけてイエスにすがったのでしょうね。
「お心ひとつで、あなたがそう思ってくださるなら、私のこの病気は直していただけます」と。


 それに対して、イエスは、彼を深く憐れみ、感染の危険性を無視して、手を伸ばして彼にさわり、
「わたしの心だ。清くなれ」と言われ、
すると、すぐに病状が消え、治ったのだそうです。



 ユダの王、ヒゼキヤが病気になり、死にかかっていたとき、預言者イザヤが来て言ったのだそうです。
「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない』と。


 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。
「ああ、主よ。どうか思い出してください。
私がまことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、
あなたがよいと思われることを行ってきたことを。」
こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。


 そのとき、イザヤに次のような主の言葉があった。
「行って、ヒゼキヤに告げよ。
あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられます。
『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。
見よ。わたしはあなたの寿命にもう15年を加えよう。
わたしはアッシリア王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。』


 ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、腫物の上に塗りつけなさい。
そうすれば直ります。」


 ヒゼキヤ王は記しています。
私は言った、
私は生涯の半ばで、よみの門に入る。
私は、私の残りの年を失ってしまった。
私は言った。
私は主を見ない。生ける者の地で主を見ない。
死人の国の住民とともに、再び人を見ることがない。
私の住みかは牧者の天幕のように引き抜かれ、私から取り去られた。
私は、私のいのちを機織りのように巻いた。
主は私を機から断ち切る。
あなたは昼も夜も、私をまったく捨て置かれます。
私は朝まで叫びました。
主は、雄獅子のように、私のすべての骨を砕かれます。
あなたは昼も夜も、私を全く捨て置かれます。
つばめや、つるのように、私は泣き、鳩のように、うめきました。
私の目は、上を仰いで衰えました。
主よ。私はしいたげられています。
私の保証人となってください。
何を私は語れましょう。
主が私に語り、みずから行われたのに。
私は私のすべての年月、私のたましいの苦しみのために、静かに歩みます。
主よ。これらによって、人は生きるのです。
私の息のいのちも、すべてこれらに従っています。
どうか、私を健やかにし、私を生かしてください。
ああ、私の苦しんだ苦しみは、平安のためでした。
あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。
あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。
よみはあなたをほめたたえず、
死はあなたを賛美せず、
穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。
生きている者、ただ生きている者だけが、今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。
父は子らにあなたのまことについて知らせます。
主は、私を救ってくださる。
私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう。



 私たちも、天の神、主に心のままを申し上げ、見ていただきながら、
主の御心を求め、御こころに聞きながら(エレミヤ16:12)、御こころによって生きられますように。
今日も。
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