soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

 祝福、幸せを届ける者として

 主はまことの神である。
  生きた神であり、
    永遠の王である。エレミヤ書10:10口語訳)


 祝福に満ちた唯一の主権者、
王の王、主の主、
唯一の不死の存在、
近寄り難い光の中に住まわれる方、
だれ一人見たことがなく、見ることのできない方に、
誉れと永遠のがありますように。Ⅰテモテ6:15~16


 使徒9:36~42
 エレミヤ書18:1~12
      (ローズンゲン日々の聖句9/14;水)


 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から、預言者エレミヤにあったみことばなのだそうです。
「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」
私が陶器師の家に下っていくと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。
陶器師は、粘土で製作中の器を自分の手でこわし、
再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。


 それから、私に次のような主のことばがあった。
「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。
――主の御告げ――
見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。
わたしが、一つの国、一つの王国について、引き裂き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、
もし、わたしが災いを予告したその民が悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていた災いを思い直す。


 わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、
もし、わたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行うなら、
わたしはそれを与えるといったしあわせを思い直す。


 さあ、今、ユダとエルサレムの住民に言え。
「主、「わたしはある」と名乗られる方はこう仰せられる。
見よ。わたしはあなたがたに対して災いを考え、あなたがたを攻める計画を立てている。
さあ、おのおの悪の道から立ち返り、あなたがたの行いとわざとを改めよ。」


 しかし、彼らは言う。
「だめだ。私たちは自分の計画に従い、
おのおの悪いかたくなな心のままに行うのだから」と。(エレミヤ18:1~12新改訳)



 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、「父である神」、「御子である神」、「聖である霊と呼ばれる神」が、それぞれ、全知であり、全能であり、永遠不変の方でありながら、「わたしは、わたし」と自己主張なさる方ではなく、愛し合い、互いを尊び合っておられて、自由意思で、自発的に、思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる方々なのだそうです。


 そして、その「われわれが一つになっているように、愛し合い、尊び合って、自由意思で、自発的に、われわれの一つに加わり、われわれの一つのさまを現すものを造ろう」とされて(創世記1:26)、
まず、私たち、人間の住まいとして、この天地宇宙を創造し、地球の自然環境を全部整えたうえで、
ひとりの人アダムを、そして、アダムのからだからエバを造り、
エデンの園に置いてくださったのだそうです(創世記1~2章)。


 二人は、創造主である天の神、主、「わたしはある」と言われる方と思いを一つにし、心を一つにするものとして何不自由なく過ごしていたのですが、
自分がもっと素晴らしい者になろうとし、
天の神、主との「一つ」になっている場を捨て、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとしたのだそうです(創世記3:5、22))。


 それで、人は、創造主である、天の神、主、「わたしはあるという者」名乗られる方に対抗し、
自分の理性を神とし、自分一人の理性の善悪の判断を実現しようとする者になって、
今日の私たちに至っているのだそうです。


 天の神、主から特別に選び分けられ、「律法」として神の御思いを示され、
「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」(出エジプト24:7)と応え、
神の民となる契約を結んでいるイスラエルの民においてさえも、
このように、「だめだ。私たちは自分の計画に従い、おのおの悪いかたくなな心のままに行うのだから」と応えるものであったのだそうです。



 この背きの罪の罰を、「御子」である神は、「父」である神のご計画に従い、自分から、天の栄光の座を後にし、「女の子孫」(創世記3:15)として、ダビデ王の家系である一人の貧しい処女マリヤのを選び、その胎を通して、人の世に、人として生まれられ、すべての人の身代わりとなり、十字架刑での処刑を受けてくださり、受け取る者の、「善悪を知る者」となっている「生まれた時からの霊」を処刑されたもの、死んだものとしてくださる道を開いてくださったのだそうです。


 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって受け入れる者の心に、「父」である神が、私たち一人ひとりに思っておられる御思いを置いてくださって(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~32)、
受けれるものが「父」である神と同じ思いを思い、一つ心になって生きる、新しい生き方を始めてくださるのだそうです。



 ペテロが、「父」である神の御思いに従って、ヨッパの死んでしまっていたタビタを生き返らせて弟子たちに返してやったように(使徒9:36~42)、
受け入れる者は、天の神、主、「わたしはある」という者と名乗られる方が、私たち一人ひとりを通して、幸せにしようとして思われていることをしていく者にしていただけるのだそうです。
まことの神、生きた神、永遠の王である、この方の誉と永遠の支配を、今、置かれているそれぞれの場にもたらす者として。
今日も。
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