soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

大河の流れのような、義と平和と喜びの中で

 わたしの戒めに耳を傾けるなら、


  あなたの平和は大河のように、


    恵みは海の波のようになる。イザヤ書48:18





 神の国は、


聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。


このようにしてキリストに仕える人は、


神に喜ばれ、人々に信頼されます。ロマ書14:17~18





 ヘブル書12:1~3


 エレミヤ書29:1~14


      (ローズンゲン日々の聖句9/23;金)
 




 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方が、イザヤを預言者として立てて言われています。
 




 「あなたを贖(あがな)う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。
 
『私は、あなたの神、主である。
 
わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。
 
あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、


あなたのしあわせは川のように、
 
あなたの正義は海の波のようになるであろうに。
 
あなたの子孫は砂のように、
 
あなたの身から出る者は真砂のようになるであろうに。
 
その名はわたしの前から絶たれることも、
 
滅ぼされることもないであろうに」(イザヤ48:17~19新改訳)と。
 




 そして、この天の神、主の教え、導きに耳を傾け、これについていく者、


神の御思いが実現し、その統治が成っている者の間では、


「義と平和と聖霊による喜び、そして信頼」があるのだそうです。
 




 エレミヤはバビロンに捕囚となった人たち、


「もう、2年もすれば、神がバビロンを罰し、私たちはエルサレムに帰れる」と言っている、


天の神、主が遣わされなかったのに、自分の考えで預言している偽預言者の預言によって、もうすぐ帰還できると惑わされている人たちに預言しました。
 




 「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。
 
妻をめとって、息子、娘を生み、あなたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。
 
わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために、主、「わたしはある」と名乗られる方に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。』
 




 まことに、イスラエルの神、万軍の主、「わたしはあるという者 」と名乗られる方は、こう仰せられる。
 
『あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。


あなたがたに夢を見させている、あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな。
 
なぜなら、彼らはわたしの名を使って偽りをあなたがたに預言しているのであって、わたしが彼らを遣わしたのではないからだ。――主のみ告げ――
 




 まことに、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方はこう仰せられる。
 
『バビロンに70年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこのところ(エルサレム)に帰らせる。
 
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主のみ告げ――
 
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。




 
 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
 
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
 
わたしはあなたがたに見つけられる。――主のみ告げ―― 
 




 わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。――主のみ告げ――
 
わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたもとの所に帰らせる』」(エレミヤ29:5~14)と。
 







 使徒パウロも勧めています。
 
「落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい」(Ⅰテサロニケ4:11)。
 




 具体的な、今、置かれている生活の場所で、天の神、主の御思いの現れを見ていくのだそうです。
 




 多くの人たちが、この、具体的な生活の場で、天の神、主の統治の中を歩みました。
 
その人たちが、証人として、実際に歩んだ事実を証拠としながら、雲のように私たちを取り巻いて見守ってくれているのだそうです。
 




 だから、私たちも、弱ったひざを強くし、いっさいの重荷とまつわりつく罪、「生まれたときからの私」という霊から来る思い、それを、イエスと共に十字架刑で処刑された者から来る思い、死んだものから来る思いと認めて、これをかなぐり捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんかと勧められているのですね。
 




 「聖である霊」と呼ばれる方が、信仰の創始者であり、完成者であるイエス、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の右に着座しておられるイエスから目を離さないで(ヘブル12:1~3)、御思いに耳を傾け、心を向けながら進ませてくださるのだそうですから。


今日も。



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