soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

揺るぐことなく、この希望に踏みとどまり

 神の言葉:


わたしは雲の中にわたしの虹を置く。


これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。創世記9:13 





 揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、


あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。


この福音は、


世界中の至るところの人々に宣べ伝えられています。コロサイ書1:23





 申命記32:44~47


 ルカ10:25~37(通読箇所)


  (ローズンゲン日々の聖句2/20:月)





 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて(創世記Ⅰ:26)と望まれて造られた私たち人間。





 けれども、最初の人、アダムは、その天の神、主によって造られた「われわれのかたちとして、われわれに似せて」という場に留まることをしないで、もっと素晴らしい者、権威、力を持つ者になろうとして、「神のひとりのようになり、善悪を知るようになった」(創世記3:5、22)のだそうです。


 人は、自分の理性を神とし、自分の理性による善悪の判断のままに生きる者、自分を誰よりも高く、神よりも上の場に置こうとするものになり(イザヤ14:13~14)、天の神、主に対立、対抗し、人間同士も互いに対抗するものになったのだそうです。


 その結果、人は、自分の思いどうりにならないと人を殺す者にもなり(創世記4:1~8)、人がその心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾き、地上に人の悪が増大し、地は、神の前に堕落し、暴虐で満ちてしまったのだそうです。


ついには、天の神、主が、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められるほどに。





 それで天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は仰せられたのだそうです。


「わたしが創造した人を地の面からけしさろう。


人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。


わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ」(創世記6:5~7)と。
 




 しかし、ノアは、正しい人で、その時代にあっても、全き人であり、神とともに歩んでいたので、天の神、主は、ノアに箱舟を造るように命じ、箱舟に入ったノアとその家族、動物たち以外の、神を無視し、箱舟に入ろうとしなかった人たちは、洪水で滅びることになったのだそうです。





 およそ、1年間あった洪水の水が引き、地が乾いて、ノアたちが箱舟から出て来たとき、天の神、主は仰せられたのだそうです。


「わたしは、決して再び人のゆえに、この地を呪うことはすまい。


(善悪を知る者になった)人の心に思い計ることは、初めから悪であるからだ。


わたしは、決して再び、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい」(創世記8:21)と。


 そして、仰せられたのだそうです。


「わたしはあなたがたと契約を立てる。


すべての肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。


もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない」と。


そして、その契約のしるしとして、雲の中に虹を立てられたのだそうです(創世記9:9~17)。
 




 天の神、主は、別に計画を立てておられたのだそうです。


人を洪水で滅ぼすことはしないと決められたのですが、


今度は、〔御子である神〕が、人となって人の世に来られ、


人として、すべての人間のすべての反逆の責任を取って、


すべての人の身代わりとなっての処刑を受け、


受け入れる者を処刑が終わっているものとしようと。
 




 そして、受け入れる者に、新しい霊を、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣して、この方によって、心を一新しようと。


その心に〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを置き、受け入れる者が〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になって生きる者に、「われわれのかたちに、われわれに似たものに」なってくれるようにと。
 




 およそ。2000年ほど前、マリヤの子、ナザレ出身のイエスが、ユダヤの地、エルサレムで、ローマ総督ピラトのもと、十字架刑で処刑されたこと。墓に葬られたそのイエスが、三日目、日曜日の早朝、墓から新しい霊のからだに復活し、40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国について教えた後、弟子たちの見ている前で、オリーブ山から天の〔父である神〕の右の座、〔御子である神〕の位に帰られたこと。





 そして、10日後のペンテコステ(五旬節)の日、待ち望んでいた弟子たちに、約束の〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られ、弟子たちは、この方が話させられるとおりに話すようになったこと。


 


 そして、この出来事は、エルサレムから始まって、ユダヤ、サマリヤの全土、地の果てにまで伝えられている。
 




 今も、受け入れる者に〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られ、心を一新してくださって、受け入れる者が〔父である神〕の御思いによって生きる新しい生き方が始まるのだそうですから。
 




 それで、揺るぐことなく、この生き方に踏みどどまり、離れないように、と勧められているのですね。
 
「これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちである」(申命記32:47)のだそうですから。


今日も。






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