soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

キリスト・イエスが、罪人を救うためにこの世に来てくださったことの見本として

 主よ、あなたが民を喜び迎えられるとき、


私を御心に留め、


御救いによってわたしに報いてください。詩編106:4





 パウロの手紙:


私が憐れみを受けたのは、


キリスト・イエスが


まずその私に限りない忍耐をお示しになり、


私がこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の


手本となるためでした。Ⅰテモテ1:16





 ゼカリヤ書7:2~13


 ルカ12:35~48(通読箇所)


  (ローズンゲン日々の聖句3/4:土)





 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方が、ご自分の民を喜び迎え、愛をもって扱ってくださるときが来ているのだそうです。


私たちを顧み、救ってくださるそのときが。





 使徒パウロは、自分のことを、


「私は、以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力を振るう者でした。


それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。


そして、罪人を救うためにこの世に来られたキリスト・イエスは、


罪人のかしらである私を救ってくださり、


今後、このイエスを信じて、


あわれみによって救っていただき、


永遠の命を得ようとしている人々の手本、見本にしようとしてくださった」と言っています。


憐れみによって、罪人が救っていただける見本に。
 




 天の神、主は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」(創世記3:5、22)として、天の神、主に、対立、対抗して、宗教的行事は盛んにし、断食もするけれど、食べたり飲んだりするのも、自分のためであり、自分の考えでするばかりで、神のことばを聞こうとしない(ゼカリヤ7:5~12)私たちの〔生まれたときからの霊〕を、あのイエスの十字架刑での処刑に合わせて、処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。





 そして、受け入れる者に、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、この方によって、ご自身の、私たち一人一人に対して思っておられる御思いを、受け入れる者の心に置いてくださり、受け入れる者がご自身と一つ心になるようにしてくださるのだそうです。
 




 それで、受け入れる者は、心の思いを入れ替えていただいて、


食べるのも飲むのも、主のためにするようになり(Ⅰコリント10:31)、


「正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、あわれみ合い、やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげることをせず、互いに心の中で悪をたくらむことをしない」(ゼカリヤ7:9~10)心にもしていただけるのだそうです。
 




 そして、あのイエスがもう一度来られるときを、


「腰に帯を締め、あかりをともして、真夜中でも、夜明けでも、主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、


その帰りを待ち受けている人のようにし、


その時まで自分に預けられ、任されているもの、任されている場を、


主人の心、主人のその思いのとおりに用い、果たそうとする心にも(ルカ12:35~47)。


今日も。


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