soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

私のすべてを探り知る方に

私は言う。
「闇の中でも主は私を見ておられる。
夜も光が私を照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。
夜も昼も共に光を放つ。詩139:11~12


 私たちがイエスから既に聞いていて、
あなたがたに伝える知らせとは、
神は光であり、
神には闇が全くないということです。Ⅰヨハネ1:5


 ヨブ記19:21~27
 ルカ22:24~30(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句4/4;火)


 私たちが、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から身を隠そうとして、
「おお、闇よ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ」と言っても、
天の神、主にとっては、闇も暗くはなく、暗闇も光も同じことなのだそうです。
それは、この方が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた方。
胎児の私を見られ、この方の書物に私のすべてが書きしるされたのだそうですから。
私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに(詩篇139:7~16)。


 天の神、主は、光そのものであり、回転の影とか闇の部分が全くない方なのだそうです。
だから、私たちが、神と交わりがあると言っていながら、
しかも、隠し事をし、闇の中を歩いているなら、
私たちは偽りを言っていることになるのだそうです。


 もし、自分には罪がないと言うなら、私たちは自分をあざむいており、
真理は私たちのうちにはないのだそうです。


 けれども、私たちが自分の罪を言い表し、神さまの前に差し出し、見ていただき、
明るみの出来事、光の中の出来事としていくなら、
御前には、私を贖(あがな)う方がいてくださり(ヨブ19:21~27)、
私たちの罪、的外れの責任を、全部、ご自身に受け取ってくださって、
ご自分の罪、的外れとして、その罰をご自身に受けてくださっているのだそうです。


 だから、私たちは安心して、自分の罪、的外れをありのまま、そのままこの方の前に差し出し、光の中の出来事、明るみの出来事として大丈夫なのだそうです(Ⅰヨハネ1:5~9)。


 天の神、主は、私たちの罪、的外れの存在であることを良く知っておられ、
憐れみをもって、イエスによる救いを用意していてくださるのだそうですから。


 自分の的外れの実態を認め、この、神さまの憐れみの中に生きる者は、
心の中にある、自分が他の人よりも、少しでも偉い者になろうとする思いも、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて処刑された、死んだ、〔生まれた時からの私〕という霊から出て来ている思いであることを認めて、
これをそのままイエスの御前に差し出し、受け取ってもらい、
明るみの出来事としてもらいながら、
イエスがそうであったように、
〔聖である霊〕が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いのとおりに、
仕える者にもしていただけるのだそうです。


 イエスの御国で、イエスの食卓で食事をする者とも(ルカ22:24~30)。
今日も。
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