soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

御国を受け継ぐ保証の証印を押していただいて

「わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、
わが霊を
イスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。エゼキエル書39:29


 あなたがたもまた、
キリストにおいて、
約束された聖霊で証印を押されたのです。エフェソ書1:13


 マルコ11:(⒛、21)22~26
 使徒16:16~24(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/12;水)


 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)と望まれて、私たち人間を造られたのだそうです。


 けれども、最初の人アダムは、その、天の神、主と思いを一つにしていく、その場に留まることをせず、
もっと自分を高めようと思い、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって(創世記3:5、22)、
天の神、主に対立、対抗する者になったのだそうです。
そして、このアダムの子孫であるわたしたちもこの性質を受け継いで生まれて来ているのだそうです。
ダビデ王が、「ああ、私は咎(とが)あるものとして生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました」(詩篇51:5)と言っているのは、このことを指しているようです。


 天の神、主は、私たちがなお、「私は自分の力でちゃんとやって見せます。救い主など私には必要ありません」という口を封じるため、
まず、そのときの最良の者であったノアを選び、
このノアとその家族から新しく歴史を始められたのですが、その結果は今の世界のようでした。


 次いで、天の神、主は、一人の人アブラハムを選び、この一人の人から一つの民族を育て、
この民族にご自身の御思いを、「律法」という形で示し、
民は、「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と答え(出エジプト19:8、24:3、7)、
天の神、主は、この民、イスラエルの神となり、この民をご自身の「祭司の王国、聖なる国民」(出エジプト19:6)とすると言われ、契約が結ばれたのだそうです。


 けれども、その後の800年ほどのイスラエルの歴史においても、民は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」として、自分の善いと思う道を歩むばかりで、天の神、主と思いを一つにしようとはしなかったのだそうです。


 神の「律法」を自分の力で行いますといくら答えても、行い得ない、
律法によっては義とされることはできないことがこのイスラエルの歴史においても明らかにされた、ということでしょうか。


 それで、何度も預言者を遣わしてご自身に立ち返るよう呼び掛けても応じようとせず、自分の道を行くばかりの民をこれ以上放置できず、
アッシリアを、次いでバビロンを用いて懲らしめようとされるそのとき、一つの約束を与えられたのだそうです。


 「見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしはイスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。
わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。
――主の御告げ――
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。
――主の御告げ――
わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:31~33新改訳)。


 「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、
あなたがたはすべての汚れからきよめられる。
わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。
あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、
あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」エゼキエル36:25~28)。


 この約束からさらに700年ほどの時を経て、いよいよご計画の時が満ちて、〔御子である神〕が、女の子孫(創世記3:15)として人の世に来られ、
およそ33歳の頃、十字架刑での処刑を受けてくださり、
受け入れる者のからだから石のように自分の思いで凝り固まった心、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となっている〔生まれた時からの私〕という霊をイエスと一緒に十字架に架けられ処刑されたもの、死んだものとして取り除き、
約束の〔御霊なる神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、
〔父である神〕の私たち一人一人に思っておられる御思いを心に置いてくださり、
受け入れる者がこの御思いによって生きるようにしてくださったのだそうです。


 この、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって〔父である神〕の御思いのように生きる生き方が天の御国での生き方であり、
そのまま、天の御国に通用する生き方、天の御国を受け継ぐ証印でもあるようですね。


 天の御国の生き方を、この地で練習しているということでしょうか。
今日も。
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