soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

私の救いと栄えとは、神にかかっているのだそうですから

あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。
このことは、神の賜物です。エフェソ書2:8 (7/16の週の聖句)


 私の救いと栄とは神にかかっている。詩62:8


 イエスはペテロに言われた。
「わたしはあなたのために、
信仰がなくならないように祈った」ルカ22:32


 ルカ5:1~11
 詩1(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句7/16;Ⅲ日)


 私たちの救いは、私たちの側の何かから始まったことではなく、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から出ているのだそうです。


 「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰られて(創世紀1:26)、
最初の人アダムとエバを造られたのだそうですが、
アダムとエバは、その造られた、天の神、主と思いを一つにして生きる場に留まることをせず、
もっと素晴らしい者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になる道を選んだのだそうです。
それで、アダムとエバの子孫である私たち人間は、すべて、
この「神のひとりのようになり、善悪を知る者」として生まれてきているのだそうです。


 この、創造の目的から〔的外れ〕になり、ズレてしまっている私たちを、
天の神、主は、廃棄処分にせず、なお、大切に思っていてくださって、
最初の創造の目的、「われわれのかたち、われわれに似せた者」に回復しようと計画してくださるのだそうです。


 天の神、主は、まず、
「みんなは悪くても、一番いいものから人類を造り直せばよくなりますよ」という、私たち人間の側の言い分に対して、
当時、一番正しい生き方をしていたノアを選び、
このノアの家族から新しい人類を生まれさせられました。
が、その結果が今の世界です。


 次いで、天の神、主は、私たちの、
「私たちだって、その気になりさえすれば、あなたが仰る通りの正しい生活ができますよ。
私は、ちゃんと自分の力で正しく生きていけます。
救い主など必要ありません」という言い分に対して、
ひとりの人アブラハムを選び、この人から一つの民族、イスラエル民族を生まれさせて、
この民族にご自身の思いを律法という形で文章で示し、
民は「主の仰せられたことはみな行います」と答えて(出エジプト19:8、24:3、7)、神の民となる契約を結ばれたのですが、
そのイスラエルの歴史においても、
人々は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」として、
自分の理性の判断による、自分が善いと思う道を行くばかりで、
何度、預言者を派遣して立ち返るよう呼び掛けても、
「われわれのかたち、われわれに似せた」者にはならなかったのですね。


 そして、これ以上放置できない時点になり、ついに、アッシリアを用い、バビロンを用いてイスラエルを打たれるそのとき、新しい契約の約束を与えられたのだそうです。


天の神、主、自らが人間のこの〔的はずれ〕の責任を負い、人々をきよめたうえで、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣して、この方によって受け入れる者の心にご自身の御思いを書き付け、
受け入れる者がご自身と思いを一つにし、心を一つにしながら生きるようにする(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)という。



 そして、ご計画の時が満ちて、〔御子である神〕が、「女の子孫」として(創世記3:15)、人の世に来られ(ヨハネ1:14)、
自ら十字架刑での処刑を受けられ、そして、約束の〔聖である霊〕と呼ばれる方が、待ち望んでいたイエスの弟子たちに来られて、弟子たちは、この方が心に置かれる御思いのとおりを話す者にしていただいたのだそうです(使徒2:1~4)。


 そして、この約束は、イエスの十字架刑での処刑によるそむきの罪の赦しを受け取るすべての人に与えられており(使徒2:37~39)、
受け入れる者は〔父である神〕と思いを一つにして生きることができるのだそうです。


このように、この救いの出来事は最初から最後まで、天の神、主から出ていることであって、
神にかかっていること、神からの賜物、プレゼントなのだそうです。


 私たちが、これを受け入れ、受け取り、思いを一つにして生きる、
それはイエスご自身が願い、祈っていること、なのだそうですから。
この新しい週も。
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