soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

犯した罪と反逆のすべてを赦し、良い行いをする者に

 神を愛する人は、


    兄弟をも愛すべきです。


  これが、神から受けた掟です。Ⅰヨハネ4:21(9/25の週の聖句)





 わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、


犯した罪と反逆のすべてを赦す。エレミヤ書33:8





 私たちの救い主であるイエス・キリストが


私たちのためにご自身を献げられたのは、


私たちをあらゆる不法から贖(あがな)い出し、


良い行いに熱心な民を


ご自分のものとして清めるためだったのです。テトス書2:13~14





 マルコ12:28~34


 詩編142


      (ローズンゲン日々の聖句9/25;日)
 




 モーセは、イスラエルの民に言いました。
 
「聞きなさい。イスラエル。


主、『わたしはあるという者』と名乗られる方は私たちの神。唯一の主です。


心を尽くし、力を尽くして、


あなたの神、主、『わたしはあるという者』と言われる方を愛しなさい。(申命記6:4~5)。





あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ記19:18)と。
 







 イエスは、律法学者から、


「すべての命令の中で、どれが一番大切ですか」と尋ねられたとき、答えられたのだそうです。


「一番大切なのはこれです。


『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。


心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』





 次はこれです。


『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』





 この二つより大事な命令は、ほかにありません」(マルコ12:28~34)と。
 







 愛は、相手と心が一つになりたいと願うものなのだそうです。
 
神を愛している者は、神と心がひとつになりたいと願い、


神が愛している者も愛したいと願うものなのだそうです。


それで、神を愛していると言いながら兄弟を憎んでいるなら、


それは偽りだということのようです(Ⅰヨハネ4:20)。
 
誰かを憎みながら、神を愛しているということはありえないようですね。






 私たち、天の神、主の御思いのように神を愛し、隣人を愛することのできない、


はずれた存在のもの。
 




 それは、私たちが、「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている」(創世記3:5、22)ところから来ているのだそうです。


天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、そのような、創造の目的からはずれてしまっている私たちを、清め、赦そうとしておられるのですね。
 




 御子である方が、人間イエスとして人の世に来られ、ご自身を献げて、すべての人間の身代わりを引き受け、あらゆる不法から私たちを贖(あがな)い出すために、すべてのそむきの責任を背負って十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。
 




 イエスは、ローマ兵によって槍で突き刺されて死亡が確認され、


金曜日の日没、安息日が始まろうとしているときだったので、


近くに、アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓があったので、


急遽、そこに葬られることになったのだそうです。
 




 そして、三日目、安息日が終わった日曜日の早朝、


数人の女の弟子たちが、イエスに香料を塗ろうと墓に出かけてみると、


墓のふたをしていた大きな石はころがしてあって、イエスの死体はなく、


天使がイエスは復活したと告げたというのですね。
 




 復活したイエスは、40日にわたって何度も弟子たちのところに来られ、


神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、


ご自分が生きていることを弟子たちに示され、


「エルサレムから離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。


ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」と言い置いて、オリーブ山から、弟子たちも見ている前で上げられ、雲に包まれて見えなくなられたのだそうです。
 




 そして、その約束を待っている弟子たちに、10日後の五旬節(ペンテコステ)の祭りの日に、「聖である霊」と呼ばれる方が来られて、


弟子たちは、「聖である霊」と呼ばれる方が話させてくださるとおりを話すようになったのだそうです。
 




 天の神、主は、このようにして、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、神に聞くことをしないで、自分の理性の判断のとおりをやって行く私たちの「生まれたときからの私」という霊をイエスの十字架刑での処刑に合わせて、処刑されたもの、死んだものとみなしてくださり、


受け入れる者に、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、


受け入れる者が、この方が受け入れる者の心に置いてくださる「父である神」の私たちひとり一人に思っておられる御思いによって生きるようにしてくださるのだそうです。





 心を一新して(ロマ12:2)、新しく生きる者にしてくださり(ヨハネ3:1~8)、


御思いのとおりの善い行いに熱心な者としてくださるのだそうです。
 




 そして、ダビデとともにうたうのですね。
 




私は主に向かい、声をあげて叫びます。
 
声をあげ、主にあわれみを請います。
 
私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、
 
私の苦しみを御前に言い表します。
 
私の霊が私のうちで衰え果てたとき、
 
あなたこそ、私の道を知っておられる方です。
 
私の右のほうに目を注いで、見てください。
 
私を顧みる者もなく、
 
私の逃げるところもなくなり、
 
私のたましいに気を配る者もいません。
 




主よ。私はあなたに叫んで、言いました。
 
「あなたは私の避け所、
 
生ける者の地で、私の(相続)分の土地です。
 
私の叫びに耳を留めてください。
 
私はひどく、おとしめられていますから。
 
どうか、私を迫害する者から救い出してください。
 
彼らは私よりも強いのです。
 
私のたましいを、牢獄から連れ出し、
 
私があなたの御名に感謝するようにしてください。
 
正しい者たちが私の回りに集まることでしょう。
 
あなたが私に良くしてくださるからです。」(詩篇142篇新改訳)と。
 
 この新しい週も。






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