私は信じます。 命ある者の地で主の恵みを見ることを。詩編27:13 イエスの祈り: 父よ、わたしに与えてくださった人々を、 わたしのいる所に、共におらせてください。 それは、あなたが与えてくださったわたしの栄光を、 (ローズンゲン日々の聖句4/28;火) イエスはご自分と共に歩む者が、いつまでもご自分といっしょにいるようにと思っていて下さり、それを父である方に願って下さっているのですね。 それで、イエスと一緒に歩むことを願う者は、イエスがいるところにいるようになるのだそうですね。 まさしく、イエスが地獄におられれば一緒に地獄にいるようになり、 イエスと一緒に歩む者は、イエスの願いのゆえに、イエスのおられるところにいて、イエスの栄光を見せていただけるのだそうです。
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今こそ、心と魂を傾けて、主を求めなさい。歴代誌上22:19
私自身は、既に捕えたとは思っていません。
なすべきことはただ一つ、
後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすらは走ることです。フィリピ書3:13~14
(ローズンゲン日々の聖句4/27;月)
世を去るときが近づいたダビデ王は、天の神、主の神殿を建てることについて、息子ソロモンとアブラハムの子孫に、心を尽くし、精神を尽くして、主に求めるようにと言っているようですね。
使徒パウロも、信仰と事実との関係について、
あの方が「こうした」とおっしゃるから、そのお言葉に信頼して、そうなっていると受け取っているけれど、
事実はこれから起こることなので、それを得るよう、その事実に向かって身をのばして走っているのだと言っているようですね。
「私は、既に得たのでも、既に完全にされているのでもない。ただ捕えようとして、追及しているのです」と(フィリピ3:12)
今日の、天の神、主が私を通してしようと思っておられることにあずかることも、
この身体を脱いで、新しい、復活のからだを与えていただいて、御前に出て栄冠をいただくことも。
私たちも、今、なっているかどうかに気を取られて立ち止まりがちなのですが、
なっていない自分を認めて、
ただ、うしろのものを忘れて、ひたすら、前に向かって身をのばし、その事実が自分の身の現実となるようにと主に求めていくことのようですね。
今日も。
キリストと結ばれる人はだれでも、
新しく創造された者です。Ⅱコリント5:17(今週の聖句)
憐れみと赦しは主である神のもの。ダニエル書9:9
一人の正しい行為によって、
すべての人が義とされて命を得ることになるのです。ロマ書5:18
(ローズンゲン日々の聖句4/26;日)
命を得る道が開かれたのだそうです。
イエスが命を献げて下さったことによって。
一人の人アダムの離反によって罪が世界に入り、
罪によって死が入り、死が全人類に広がったのと同様に、
ひとりの人、イエスの義の行為によってすべての人が義と認められ、
いのちを与えられるのだそうです。
ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、
ひとりの人の従順によって多くの人が義人とされ、永遠のいのちを得させることになったのだそうです。
そして、これらのすべては天の神、主の憐れみと赦しによることなのだそうです。
天の神、主は、イエスの十字架刑での処刑によって、
私たちのからだをきれいに掃除された家のようにして下さったのだそうですが、
これを空家として放置することはなされないで、
聖である霊と呼ばれる方を送って下さって、この方が住まわれるところ、神殿として下さり、
この方が心に書き記して下さる御思いによって行動するという新しい生き方を
私たちの内に新創造して下さるのだそうです。
それで、私たちの内に律法の要求が全うされることになるのだそうですね。
今日も。