soyogiのブログ

「ローズンゲン日々の聖句」により、聖書からのメッセージを書いてみます。

語ろうとしておられる思いを書き付けて下さるのだそうです。私たちの脳裏に

モーセへに主の言葉

さあ、行くがよい。

このわたしがあなたの口と共にあって、

語るべき言葉を教えよう。出エジプト記4:12




わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、

すなわち、父のもとから出る真理の御霊が来るとき、

その方がわたしについて証しをなさるはずである。ヨハネ15:26〜27



          (ローズンゲン日々の聖句4/18;土)



 エジプトでの奴隷状態からイスラエルの民を導き出した偉大な指導者モーセ。

彼がエジプトへ行ったのも自分の意志によることではなかったのだそうですが、

語る言葉の一つ一つも、自分で語っているのではなく、

天の神、主がモーセを通して語ろうとされたことを語っていたようですね。

エジプト王パロに対しても、また、イスラエルの民に対しても。



どうしていいか分からないときには、主の御前にひれ伏して、言葉を待っていたのですね(民数記16:4)。



モーセは、一度だけ、天の神、主が言われたことと違うことをやってしましました。

イスラエルの民が、水がなく、また、つぶやいたとき、

天の神、主は、石に命じて水を出すよう、言われたのに、

モーセは怒りのあまり、前の時と同じように持っている杖で石を打ったのだそうです(民数記20:1~13)。

しかも、2度も。

この、天の神、主がしようと思っておられることと違うことをしたことで、モーセは約束の地に入ることができなくなったのだそうです(申命記32:51~52)。



 イエスは、捕縛される直前の夕食の席で弟子たちに語っておられるのですね。

これから、自分が十字架刑で処刑され、墓に葬られ、

三日目に復活し、天の父である方のところに帰ったなら、

もう一人の助け主、あなたがたを弁護する方を遣わすと。



 そして、その方が、弟子たちの心の内に、わたし(イエス)について証言をし、

この方が語られる証言のままに、弟子たちが語り伝えるようになる(ヨハネ15:27)と。



 イエス自身も、御自分のことを語っておられるのですね。

「わたしは、自分から話したのではありません。

わたしを遣わした父御自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。

……

わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです」(ヨハネ12:49~50)と。



 イエスがそうであったように、イエスに似せられていく私たちも、

私たちの内に来て下さる真理の御霊とか聖である霊とか呼ばれる方によって、

父である方が私たちそれぞれを通して語ろうとしておられる思いが、私たちの心に来て、

私たちも、

父である方が私たち一人ひとりを通して語ろうとしておられることを語る者にしていただけるようですね。

今日も。



イメージ 1





[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]



 



http://www.blogmura.com/point/00697809.html" >http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/>



 



[269RANKのランキングサイト]



 



"哲学・思想 ブログランキングへ"

裁く方が天におられるのだそうですから。


主よ、
諸国の民を裁いてください。
詩編7:9



律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。
この方が、救うことも滅ぼすこともおできなるのです。

隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。ヤコブ書4:12


          (ローズンゲン日々の聖句4/17;金)


 裁く基準を持っておられる方、裁きを行う方が天におられるのだそうです。

私たち、それぞれ、自分の基準をうちに持ち、互いに裁く思いが心に起こるものですが、その思いも、天におられる方の御前に差し出し、お渡し、この方に裁いていただきなさいということでしょうか。


 自分を責めたり、誰かをなじったりする思いが、心の内側から噴き出してくるとき、自分でその思いを抑え込み、なくしようとする努力は空しいもののようですね。


裁く方が天におられることを思い出したいものです。
「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」(ヘブル10:30)と仰られる方を。
今日も。

イメージ 1




[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]


 


アクセスランキング にほんブログ村"/>


 


[269RANKのランキングサイト]


 


"哲学・思想 ブログランキングへ"

弁護して下さるのだそうです。私たちの側に立って。あの方。

主よ、生死にかかわるこの争いを、私に代わって争い、 命を贖(あがな)ってください。哀歌3:58 私たちが持っているこの希望は、 魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、 また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。ヘブル書6:19        (ローズンゲン日々の聖句4/14;火)  預言者エレミヤは、天の神、主からの民に対するメッセージをそのとおりに伝えたために、捕えられ、殺されそうになったのだそうです。まさに生死にかかわるその争いの中で、自分に代わって神である主が争ってくれるように、命を買い戻してくれるようと願ったのだそうです。  この世の争いでもそうですが、私たち人間には、天の神、主の御前での裁判において訴える者と争わなければならない時が来るのだそうです。 私たち、一人一人が自分の今までの生きて来た生き方について弁明しなければならないのですね。告訴する者、サタンは私たちを告訴して地獄行きを求刑し、私たちを道連れにしようとするのだそうです。けれども天の神、主は私たちに代わって争ってくれる、弁護してくれる方を用意して下さっているのだそうですね。  その方は、ご自身で私たちの罪を負い、私たち人間に代わって死刑を受けて下さって地獄の底の底まで降って下さり、よみがえられた方なのだそうです。  その方の弁護は、私たちの無罪、あるいは減刑を争うのではなく、私たちの有罪、死刑を認めたうえで、その死刑が、ご自身の十字架刑での処刑ですでに完了していること、処刑が終わっていることを主張して下さるのだそうです。  自分は無罪だと、死刑にあたるようなものではないと自負し、自分で自分の言い開きをしたい者は、自分で争い、言い開きをすることになるのだそうですが、十字架に架かって死なれたイエスに弁護をお願いし、私に代わって争っていただくことも可能なのだそうですね。  私たち人間には、このような希望が用意されているのだそうですが、この希望は、この世の流れの中を渡っていくうえで、世の流れに流されそうになるときの、あるいは力尽き、望みを失いそうになるときの錨のようであり、また、天の神、主の御前にはばかることなく出て行き、親しく「父よ」とお呼びすることの出来る身分保障でもあるのだそうです。  日々の生活において、告訴する者、サタンは、「お前はだめだ。消え去れ」とささやいてくることがありますけれど、それが事実であるとしても、私たちは、イエスの弁護によって、あの方の招きに応じて、このままで御前に出、「父よ」とお呼びして親しく語っていただけるのだそうです。 今日も。 イメージ 1 "にほんブログ村哲学・思想ブログ キリスト教へ" [[img(http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif)]] [http://www.blogmura.com/point/00697809.htmlPVアクセスランキングにほんブログ村] [269RANKのランキングサイト] 哲学・思想 ブログランキングへ